ドラマ

- Drama -
 

小さな頃は本の虫だった。もちろん難解な本ではなく、童話とかの類いだけど、祖母はとにかく僕に本をプレゼントし続けた。本を読む事である種の能力が身につくと、真剣に考えていたのかもしれない。

僕は今でも、いくつかの物語をはっきりと覚えている。有名なものにしろ、無名なものにしろ、多くはハッピーエンドで終わる物語だった。もし、人生が本であれば、きっと誰もが幸せでいれただろうと思う。それがもし映画であれば、きっと気のきいたエンディングの音楽とスタッフロールが流れ、幸せな拍手とともに多くの人が満足した気分で席を立ったかもしれない。

パチパチパチ……

もちろん、我々は本や映画の主人公ではない。

人生は、もっと長く続く……

「本当の事を言っちゃうとね、少しは不安なのよ」

ホテルのバーでトムコリンズを飲みながら、妹は呟いた。

「例えば、どういう所が」
「本当にあの人で良かったんだろうか?とか、そういう月並みな事よ」

妹は一ヶ月後に結婚する。彼女より3つ年上の男と、まるでドラマのように電撃的な恋に落ちた。相手の男とは何度か顔を合わせたが、まぁそれなりという感じの男だった。何が妹をそこまで引きつけたのかは知らないけど、特に表立って反対する理由もなかった。僕よりマトモな男だろうし、なによりそれは妹の人生だ。

今日は僕と妹、それに妹の相手との3人で酒を飲もうという話になっていた。妹の携帯電話には、少しばかり遅れるというメッセージがしっかりと届いていた。几帳面な男だ。

「時々、憂鬱になっちゃう事だってあるの。ああ、これから何十年とこの人と顔を合わせて生きていかなきゃならないんだって。多分、今まで気づいてなかった、あの人の良い面をいくつも知る代わりに、同じぐらいの嫌な面も知る事になるんだろうって……」
「誰だって持つ不安だと思うよ。それは」

僕はシャンディーガフを1口飲んで続けた。

「でも結婚直前に、そこまで一歩引いた視線で物事を考える奴も珍しいかもな。なんだか、他人を心配して相談を受けているみたいな気がする」
「それって、私が冷めてるって事?」
「さぁね」

僕は思わず首をすくめる。

「はあ。兄貴にそんな事言われるようじゃ、私も終わりね」
「どういう事だよ。それ」
「普通じゃない感性の人に、心配されてる事への皮肉」
「あのなぁ」

妹はクスクスと笑った後、バックからセーラムを取り出し、少し考え込んだ後、再びバックに戻した。禁煙を考えているらしかったが、おそらく妹の意志ではそう長くは持たないだろう。妹は真剣な眼差しでコリンズグラスを見つめた後、僕のほうを向いて言った。

「私は思うんだけど、ドラマとかに人が憧れるのって、それがある部分までいくと終わるからだと思うの。その後の事を心配しなくてなんて、凄く幸せだと思わない?」
「ドラマは見ないからなぁ」

僕の呟きを妹は聞き流す。

「現実の世界って、終わりがないのね。もし、突然私が死んでしまっても、私が関っている物語は終わらないのよ。私を知っている人たちが物語を引き継いで、それが延々と繰り返されていくのね。きっと……」
「でも、お前はまだ幸せなほうだよ」
「どうして?」
「どんなに頑張っても、先の事まで考えてしまうほどの幸せに、たどり着けない人だっている」

そう言って僕は、妹には悪いと思いながらも煙草に火をつけた。そこから、彼女の事を思い出すまでに、そんなに長い時間はかからなかった。

大学3年の当時、僕は家庭教師のアルバイトをやっていた。その事は、いつ思い出しても呆れてしまう。

やれやれ、僕が家庭教師だって。

どれだけ控えめに表現したところで、僕は絶対に家庭教師には向いていない人間だと思う。これは断言してもいい。僕は他人に何かを教える事ができるほどたいそうな人間じゃないし、口が下手だからいつもおかしな事ばかり言ってしまう。何か救いを求めるとするなら、僕自身がその事を自覚しているというぐらいだろう。少なくとも自覚がないよりは数倍マシだ。

だからこそ、僕はそのバイトを長くは続けなかった。春から夏の終わりぐらいにかけて。本当に短い期間だ。

僕が教えていたのは、高校3年生の女の子が1人だけだった。その事を知った数人の連れは、僕を羨ましそうな眼差しで見つめながら言った。

「いいよなぁ、俺も家庭教師やってるけどさ、暗そうなガリ勉とただのアホだぜ。ちくしょう、若い女の子相手なら頑張る気になれるんだけどなぁ」
「おい、何か勘違いしてるみたいだけど、まだ高校生のガキだぜ」
「お前こそ勘違いしてるけど、もう高校生だ」

僕はため息をつきながら答える。

「だいたい考えて見ろよ。あの年代の女の子なんて、何考えてるのか想像もつきゃしないよ。宇宙人と話すようなもんだぜ」

幸い……と言っていいのかどうかは分からないけれど、僕の不安は外れたようだった。普通の姿格好をした、丁寧な言葉づかいの女の子だった。ストライブのTシャツにジーンズといった格好の彼女は、僕を見ると「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。束ねた髪が静かに揺れる。

「えっと。今日から週2回、君の家庭教師をする事になった田村幸雄です。とりあえず、自己紹介ってのは苦手なんだ。何か聞きたい事があったら、遠慮なく聞いてくれるかな。なんでもとは言えないけど、答えれる範囲なら答える」
「先生、こういう言い方は失礼だと思いますけど、そういう言い方が一番質問しにくいって事、分かっていて言ってるんですか?」

彼女は笑顔を崩さずに答える。もちろん、彼女もそういう返し方が、一番困る事を分かっていてやってるのだろう。首筋を掻きながら僕は言う。

「もっともな意見だな。とりあえず現在は大学の3回生。多分、君なんかが名前を聞いたら、無意識に軽蔑の視線をしちまうような3流大学なんで、あえて名前は伏せておく。それでも、一応現役で入学はした。サークルは特には所属していない。名前も覚えきれないぐらいの、大勢の人間と一緒にいるのは好きじゃあない。誰も信じてくれないけど、食生活は意外にまとも。3食きちんと食べるし、週に2回はスパゲティを食べる」
「週に2回も?」
「好きなんだ。別に中毒ってわけじゃないけどね。後は、そうだなぁ、これと言って特筆するような事はないな。どこにでもいる平凡な大学生だよ」

彼女は納得いかない表情で頷く。

「さぁ、君の番だ」
「母さんから聞いてるとは思うけど、白石由希子。どこにでもいるような、平凡な受験生の女の子。以上」

僕は苦笑いを浮かべて言う。

「なかなか皮肉の聞いた切り返しがうまいね」

彼女はその言葉に対しては、なんの反応も返さなかった。

彼女を教えていて一番最初に印象に残った事は、凄く真剣な表情で参考書に向かうところだった。僕なんかが、流し見る程度にしか参考書と向き合わなかった事を差し引いても、彼女の眼差しは何か違うような気がした。まるで人間の寿命を決める神様が、1人1人を詳しく調べながら、ノートに記入しているような、そんな感じがした。

しかし、教えていて改めて思ったのは、家庭教師を頼む人間なんて、十分な能力を持っているんだな。という事だった。僕が感じた限りでは、十分に理解力もあるし、たいして苦労しなくても十分に志望の大学には進学できそうな感じだった。

だから、僕は家庭教師の時間の多くを雑談に費やす事になった。僕が持てるアドバンテージと言えば、長く生きた分だけ無駄な知識があるっていう事ぐらいだ。

「涙を出さずに玉ねぎを切る方法って分かる?」
「半分に切った後、水につけておけばいいんでしょ」
「もっと手軽な方法もある。涙が出てくる前に、素早く切り終えるとかね」

そんな感じだ。

自己弁護にもならないかもしれないけど、彼女のほうも僕が話す事のほうに、ずっと興味を持っているように見えた。まぁ、当然かもしれない。僕だって高校生の頃は、そういう話に興味を持っていたのだ。1人で暮らす事や、新しい街との出会いや、家族と暮らしている場合には体験できない、様々な出来事を。

「けど、思うんだけどさぁ。先生って働いてない時って、普段は何してるわけ?」
「たいした事はしてないよ。音楽を聞いたり、行き先も決めずにドライブしたり、本を読んだり。その程度かな」
「TVとかは見ないの?流行のドラマとかさ」
「TVはニュースしか見ないな。作り話に興味が持てないんだ。だから本も歴史書とかしか読まない」

彼女は驚いた顔で言う。

「嘘でしょ。私、TVドラマないと生きていけないよ」
「ドラマより現実のほうがずっと面白いからね」
「なんで?退屈じゃない?」
「奇想天外な事は、現実のほうが起こりやすいからね。ねぇ、箸で豆を皿から皿へ移すのが趣味だって奴、聞いたことあるかい?」
「それ、今作ったでしょ」
「本当だよ。大学の友人で1人いる。なんでも、小さい頃から箸の使い方を練習させられているうちに、それが楽しくなったらしい。ドラマじゃ、まずそういう人物には会えないだろうからねぇ」
「暗い趣味だねぇ。そんな変わり者、絶対に友達いないでしょ」
「僕がいる」
「類は友を呼ぶってことわざの通りなら、先生も変わり者って事だね」

彼女はため息をつきながら呟く。

「しっかし、わざわざ世間から取り残されるような生活しなくてもいいのに」

僕は苦笑いで返す。しかし、僕はそんなに変わり者だろうか?

7月の終わり頃に、地元広島の友人、原口辰哉が遊びに来た。中学時代からの親友で、わざわざ、神戸のいいBARに連れていけというだけの理由で尋ねてきたらしい。俗に言う酒豪と言う奴だ。

「あのなぁ、わざわざこっちに来なくても、BARぐらいそっちにあるだろ」
「アホ言うな。おめぇも知っとるじゃろ。福山のBARなんぞ、スナックに毛がはえた程度じゃけぇ、わざわざこっちに来たんじゃろうが」

そのスナックに毛がはえた程度のBARに、週2~3日のペースで通ってるお前は何なんだよ。と、よっぽど言おうかと思ったが、ややこしくなるだけなんで黙っておく事にした。こういう些細な事で反応を返していると、収集がつかないぐらいにずるずると長引いてしまう。いつもの事だ。

少し迷った末に、ラグというBARに連れていく事にした。僕もそこまで通っているわけではないけど、安くて味のバランスが取れたカクテルを出すので気に入っている。それに、小腹がすいたらサンドウィッチやオムレツも食べられる。

週末のラグは賑やかそうだった。この店には暗黙のルールみたいなものがあって、騒ぎたい奴は週末にやってきて、のんびり飲みたい奴は平日に集まるのだ。そんなわけで、この店の客層は見事なまでに二分化されている。珍しい店だと言えば、珍しい店だと思う。

カウンターの中でのんびりと煙草を吸いっていたオーナーは、僕を見つけると「よぉ、久々だな」と、軽く手を上げた。

「どうしたんだい。今日は見かけない奴と一緒にいるね」

辰哉のほうをチラリと見て、オーナーが言う。

「ああ、紹介しとく。原口辰哉、僕の広島にいた頃の連れ」
「どうも。今日は、ぶちうめぇ酒を飲ませてもらえるとか」
「おいおい、うちの酒はいつもうまいよ」

オーナーは大げさに笑う。僕たちはカウンター席に座り、軽く肩を回した。運動不足を象徴するように、ポキポキという小さな音が鳴る。

「やっぱ、週末は忙しい?結構繁盛してるみたいだけど」
「客は多いがね、手間のかからない奴ばっかりだから、案外と楽なもんさ。平日のほうがタチが悪いね。勘違いしたキザったらしい男が、女口説くために凝ったカクテルとか注文しやがるからさ」
「じゃあ、レインボーでも注文しようかな」
「止めときな、あんな高くて不味いカクテルなんか。いつも通りギムレットかい」

オーナーの笑みにつられて、僕も笑みを浮かべる。

「さすが、話が早い」
「そちらさんは、何にする?」
「わしは、マイヤーズをロックで。ライム付きで頼むわ」

僕は驚いて、辰哉のほうを見る。辰哉は不思議そうな顔をして言った。

「おい、どうかしたんか?」
「いや、なんでロックなわけ?どこの店で飲んでも変わらなぇだろ」
「ちっちっ、分かってないのぉ。ロックをうまく作れるかどうかで、バーテンダーの技術ってのは、分かるもんじゃろう。覚えとけ、単純なもんこそ、一番難しい」

やり取りを聞いていたオーナーは、冷凍庫からマイヤーズのボトルを出しながら笑う。

「おいおい、えらく通なお客さん連れてきてくれたねぇ。こりゃあ、週末だってのに、気も抜けないなぁ」

僕と辰哉はその言葉を聞いて、往々に笑った。

1時間半ほど会話をしただろうか。尿意を感じ、トイレへと歩きだした。トイレのすぐそばにある洗面所では、先客が手を洗っているようだった。タイミングを外したかな。と思っていると、振り向いた先客が驚いた声で言った。

「あれ、先生?」

白石由希子だった。

「いやぁ~、偶然だね。それじゃ、ま、そういう事で」
「おいおい、ちょっと待てよ」

足早に立ち去ろうとする彼女を、僕は呼び止める。彼女は不安そうな眼差しを僕に向けた。

「そう邪険に扱う事はないだろう」
「だって、怒るんでしょ?家庭教師と言っても、一応は先生なわけだし」
「家庭教師の時間以外は、僕は先生じゃないよ。別に君の保護者になったつもりはないしね。ただ、こんな店に来るって事が、意外に感じただけだよ」
「へへ、実はよく来るんだよね。友達と一緒に」

いたずらが見つかった時に浮かべる、ごまかしのような笑みで彼女は言う。

「この店を気に入るセンスの良さには関心するよ」
「それって、遠まわしに自分のセンスが良いって言ってない?」
「そのよく回る口にも感心するよ」

彼女の笑みにつられて僕も笑う。

「女の子ってのは、そういうもんよ。先生。あっ、友達待ってるんだ。もう帰るとこだから、先に失礼するねっ。それじゃ」

そう言って彼女は、あっという間に人ごみの中に消えていった。トイレから戻った僕を見て、辰哉は不思議そうな顔で言った。

「なんかあったんか?」
「珍しい人に会っただけだよ」

僕はそっけなく呟いた。

そんな感じの出来事があった後も、彼女への家庭教師は普段と変わりなく続いていった。変化があったのは夏も終わろうとする頃の事だ。いつものように、彼女の家のインターホンを鳴らした時、不安そうな顔つきの母親がドアを開け た。

「あ、こんにちは。お母さん」
「先生ですか。困ったわ、どうしましょう」
「どうかしたんですか?」

僕は少しばかり首を傾げる。

「実は、昼ごろに出かけたっきり、由希子が帰ってきてないんです。変だわ、今日が家庭教師の日だって事は知っているはずだし、サボったりするような子じゃないんですけど」
「戻ってくるまで、待っていたほうがいいですかね?」
「いえ、そんな、先生に迷惑をかけるわけにはいきませんわ。私、これから心当たりを探してみようと思いますんで、今日は家庭教師もなしという事で」
「分かりました」

そう言って、僕はもと来た道を戻りはじめた。彼女の母親には言わなかったが、行き先の検討はついていた。

予想通り、彼女はラグにいた。何杯ぐらい飲んだのだろう。酔いが回っているらしく、トロンとした目つきをしていた。

「こら、未成年」

そう言って、僕は彼女の隣に座る。一瞬、何が起こったのか分からないという表情で、彼女は僕を見ていた。

「なんだ、先生か」
「なんども言うようだけど、家庭教師の時間以外は、僕は先生じゃない」
「ほんとに嫌いなんだね、先生って呼ばれるの」
「嫌いだね。特に字面が好きになれないな。先に生まれるなんてね」

彼女はクスクスと笑った後、つぶやいた。

「怒りにきたの?私を」
「どうして?」
「家庭教師の授業をサボったから」
「真面目に教えようが教えまいが、給料は同じだからね。僕が怒る理由なんてどこにもないさ」

僕はバーテンダーにスプモーニを注文して、言葉を続けた。軽く見回してみたけど、オーナーは今日はいないみたいだった。

「ただ、両親に心配をかけるのは関心しないな」
「心配なんかしてるの?信じられないよ」
「普通の親なら自分の子供が授業サボって、飲酒や喫煙していたら、そりゃあ心配するさ」

暫くの沈黙の後、彼女は言った。

「分かってないよ、先生。今時の普通の子はね、みんな授業をサボったりもするし、飲酒だって喫煙だってしてるよ。ウリやってる子だっている」
「そうなの?」
「そうよ。私だって同じ。みんなと同じ、普通の子なんだよ」

そのまま彼女は黙り込んだ。僕はスピーカーに耳をかたむける。ジョンコルトルーンの演奏だ。ジャズは死んだなんてセリフをはいたのは、どこのどいつだったけ?

沈黙が言葉を急かしたのか、彼女は再びしゃべりだす。

「時々、思うの。私はみんなと同じ、どこにでもいる普通の子で、じゃあなんで生きているんだろうって。みんなと同じなら、私がいる必要なんてどこにもないんじゃないかって。そういうのが、突然に波みたいにやってくるの。分かってもらえる?」
「僕が君ぐらいの時も、同じような事を悩んでいた気がするな」
「ねぇ、ずっと待ってたの。昔から、ずっと待ってたのよ。いつか、ドラマみたいにゲキテキな何かが起こって、退屈な日常が変わるんじゃないかって。ずっと、ずっと思ってた」

彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。アルコールは時々、人の心を無防備にする。今の彼女は、軽く触れてしまうだけで、粉々になってしまいそうなぐらいに、脆く見えた。おそらく、何か声をかけてやるべきなのだろう。でも、いったい僕に何が言えるっていうのだ。

暫く考えた後、僕はつぶやく。

「昔、犬を飼っていたんだ」
「犬?」
「そう。小学校の頃、ソフトボールの練習の帰り道、拾って帰ったんだ。母親が犬が嫌いでね、飼う許可を貰うのに、随分苦労したよ」

スプモーニを一口飲んで続ける。

「高校生の時、犬が死んだんだ。当時の僕は犬の世話なんて、全然してなかった。その頃は、犬の世話なんかより、もっとやりたい事や、やらなくっちゃならない事があったんだ。分かるよね」

彼女は小さく頷く。

「犬が死んだ時、僕はそこにはいなかった。それで僕の知らない間に、死体はどこかに捨てられていた。知ったのだって随分と、後の事なんだ」
「それで、どうしたの?」
「別にどうもない。たったそれだけの事なんだ。他に思い出になるような事は、たくさんあったはずなのに、その事を一番はっきりと覚えている」

彼女は不思議そうな表情で僕を見ていた。

「ゲキテキってわけじゃない。どこにでも転がっているような話だし、誰の身にも起こりそうな出来事だ。でもね、それが僕の身に起こったドラマだし、ドラマっていうのは、そういうもんじゃないかって思ってる」

再び沈黙が訪れる。しかし、今度は何かを急かすような沈黙ではなかった。やがて、彼女が口を開く。

「改めて確信したけどさ、先生ってそうとう変わりものでしょ」
「普通だよ。ただ、周りの人間と違うところは、何でもなさそうな事にこそ、重要な意味があるって思ってるとこぐらいさ」
「変な人」
「それと、くどいようだけど……」
「家庭教師の時間以外は、僕は先生じゃないんでしょ。分かってます」

彼女はそう言って、クスクスと笑いだした。

時々、ふとした拍子に、その日の事を思いだす。都合のいい解釈に聞こえるかも知れないけど、あの日、彼女は僕に抱かれる事を求めていたんじゃないだろうか?先生と生徒の肉体関係。そんな仮想のドラマを。自分が、そんなドラマの主役である事を。

そう思うのは僕の考えすぎなのだろうか?

「ちょっと、兄貴」

妹の声に気づき、横を向くと妹の相手が到着したようだった。

「どうも、お義兄さん」

彼、奥田徹は気持ちのいい笑顔を見せながらあいさつをした。僕があいさつを返すまで、イスには座らないつもりでいるらしかった。そこまで気を使われるのは、あまり好きではない。早々にあいさつを返すと、彼はやっとイスに座った。

「まったく、兄貴は。その考え込むと周りが見えなくなる癖、絶対に直したほうがいいよ」
「失礼な言い方だな。集中力があると言ってほしいな」
「視野狭窄っていうのよ、それは」

妹は即座に言い返す。口ではやっぱり勝てそうにない。

兄妹けんかをしていてもしょうがないので、僕らは奥田の話を聞いて時間を過ごした。彼は広告関係の仕事をしているらしく、クライアントの無茶苦茶さと、スケジュールのずさんさについて、面白おかしく喋ってくれた。

暫くして、かなり酔ってしまった妹は、トイレに行くため席を立った。妹がいなくなると、突然に会話が止まる。まぁ、仕方がない事かもしれない。少しばかりの沈黙の後、奥田はポツリと呟いた。

「仲の良さそうな兄妹で、うらやましいですね。僕は一人っ子だったんで、そういうのって、結構あこがれてるんです」
「居たら居たで、結構うっとおしいって思う事もあるよ。朝のトイレの順番とかね」

奥田はおかしそうに笑う。

「なんでさ、妹と結婚したいって思ったの?」

僕がその疑問を口にすると、奥田の笑いはピタリと止まった。

「説明するのって、難しいんですよね。すごく、感覚的な部分が多いんです。感情的な部分かもしれない。ただ、彼女じゃなきゃ嫌だって」
「これは凄く個人的な疑問なんだ。だから、気を悪くしたら謝る。そういうのってね、相手に対する誤解の積み重ねで成り立っているような気がするんだ」
「誤解?」

僕はぬるくなったシャンディーガフの残りを飲みながら続ける。

「つまりね、相手に対して、この人はこういう人なんだっていう、思いこみのままで突っ走っているような気がするんだ。だから、そういうのって、自分の思いこみが外れてた時とか、結構辛いんじゃないかって思ってね」
「でも、それは、どんなに時間がたっても変わらないと思いますよ。相手に対しての誤解や思いこみがない関係なんて、僕はまだ見た事ありませんし」
「僕もないな」

そう言ってお互いに笑う。妹はまだ帰ってきそうになかった。

「あいつは、末っ子だからかも知れないけど、結構言いたい事やキツイ事を言うし、周りから凄い強い人だって誤解されやすいタイプなんだ」
「でしょうね」
「だから、この人は頼れる人だって、勘違いした奴らとの破局例を何度も見てきたからね」

それほど強い印象が残っているわけじゃないけど、妹との電話で記憶に残っている会話がある。あれは、僕が大学に進学して、一人暮らしを始めた直後だったと思う。

「まいったね、振られちゃった」

妹の声は、普段と変化もなく、他人事のような言い方だった。

「やっぱりさ、このキツイ言い方って何とかしたほうがいいのかなぁ。まぁ、気の弱い奴だったからさ、荷が重かったんだろうねぇ」
「なんか、全然落ち込んでなさそうだな」

僕は拍子抜けして言った。

「まぁね、最初っからなんとなく予測ついてたからさ」

時計をちらりと見ると、23時18分だった。窓の外からは、まだ人の声が聞こえてくる。僕は窓を閉めながら、呟いた。

「嘘なんだろ」
「え?」
「最初から分かってるんなら、付き合ったりしないよな」

妹だけじゃない。大概の女はそんな言葉を平然と吐く。予言者のように。妹は少し黙り込んだ後、「そうかもね」と、あっさり認めた。

「多分、そんな風に思いこんで、少しでも楽になりたいだけなんだ。そうじゃないと、ほら、辛すぎるからさ」

電話なので表情は見えなかったけど、妹の声は明るいままだった。それが妙に痛々しく感じたのは、気のせいなのだろうか?

「大丈夫ですよ」

長い沈黙の後、奥田はポツリと呟いた。

「きっと大丈夫です」

彼と妹は、案外と似た者同士なのかも知れないな。と、思った。あの日、電話をかけてきた妹と、彼がなぜかオーバーラップして見えた。僕にできる事をいったら、曖昧な頷きを1つ返すぐらいだった。

ホテルのBARを出ると、風は妙に生暖かかった。酔いつぶれた妹を背中に背負ったまま、奥田は僕に言う。

「お義兄さんは、これからどうするんです?」
「そうだな、明日は休みなんだし、別の店に行って飲み直すよ。どうも、こういうBARは堅苦しくて、リラックスできないんだ」

僕は伸びをしながら言う。日頃の疲れが、肩の上にのしかかっている気分だ。

「それじゃあ、ここでお別れですね。お義兄さんは、結婚はまだ考えていないんですか?」
「相手もいないのに、結婚はできないなぁ」

奥田は気持ち良さそうに微笑むと、「それじゃあ」と言って歩きだした。僕は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。その1本を吸い終える頃には、奥田と妹の姿は見えなくなっていた。

幸せになってくれればいいのに。皮肉でも冗談でもなく、真剣にそう思った。あれでも妹は、それなりの苦労もしてきたわけだし、幸せになってもいい頃のはずだ。あいつの不安が1つでも少なくなればいいのに。兄として、それは切実に感じる。

そういえば、妹が前に、こんな事を言ってたような気がする。

「はっきり言うけどさ、なんだかんだ言っても私、兄貴の事心配してんだよ。なんか、ほっといたら、いつまでも結婚できそうにないっしょ」

思わず苦笑いが浮かぶ。知らないうちに、あいつの不安の種の1つになってたんだっけ。でも、悪いけど、その不安はそうそうすぐには消えそうにはない。

ある女の子に手紙を貰った事がある。その子からは、最初で最後の手紙だった。

私には、幸雄の事が分かりません。
でも、きっと私以上に
幸雄には自分の事がわかっていないんじゃないでしょうか?

なんだか、冷めた意見になるけど、私は他人の事を第一に考えて行動する
なんて事は、素直に納得はできないし、信じてもいない。
だってそうでしょう。誰だって自分が一番大事だし
自分が傷ついても、相手のために何かするなんて、馬鹿げてるもの。

でも、幸雄はそれをやっているように見えます。
それは私にとって、ある種のカルチャーショックでした。
だって、そんな風にしてる人って、たいていの人が
他の人から良く思われたいってのが、みえみえなのに
幸雄の場合、それが全然感じれなかったから。

それがある時、ふっと思っちゃったの。
幸雄は自分のために何をすればいいのかが、分かってないんだって。
だから、そんな風に他人のことであれこれできるんだろうって。

分かってないわけじゃないんだよ。僕はその手紙を思い出しながら、心の中で呟いた。僕が望んでいる事なんて、世の中に溢れすぎていて、誰もそんなものを望んでいるって、素直に信じれないだけなんだ。

多分あの子も、もっときらびやかなドラマを求めていたのだろう。でも、それは僕が求めてるものとは、また違うものなのだ。自分の年齢を頭の中で繰り返してみる。28、随分と長い時間のように感じる。

でも、その28年が、そんなに周りから見て退屈さと平凡さに満ちた日々だったのだろうか?そんな事はないと自分では思う。胸踊るような事もあったし、とことん沈むような事もあった。ただ、何も残っていないだけだ。

僕は2本目の煙草に火をつける。

構うことはない。たとえそれが平凡で退屈そうに見えたとしても、それが僕のドラマだ。誰かに作られたわけでも、誰かのためでもない、僕自身のドラマなのだ。そんなドラマを、誰か1人ぐらいは気に入ってくれるかもしれない。

だから、とってつけたような演出も、口うるさいだけのスポンサーも、ややっこしい視聴率も欲しくはない。僕は僕自身で、そのドラマを続けよう。

僕はゆっくりと歩きだす。絹糸のように細い雨が、少しずつ降りはじめていた。