小さな頃は本の虫だった。もちろん難解な本ではなく、童話とかの類いだけど、祖母はとにかく僕に本をプレゼントし続けた。本を読む事である種の能力が身につくと、真剣に考えていたのかもしれない。
僕は今でも、いくつかの物語をはっきりと覚えている。有名なものにしろ、無名なものにしろ、多くはハッピーエンドで終わる物語だった。もし、人生が本であれば、きっと誰もが幸せでいれただろうと思う。それがもし映画であれば、きっと気のきいたエンディングの音楽とスタッフロールが流れ、幸せな拍手とともに多くの人が満足した気分で席を立ったかもしれない。
パチパチパチ……
もちろん、我々は本や映画の主人公ではない。
人生は、もっと長く続く……
ホテルのバーでトムコリンズを飲みながら、妹は呟いた。
妹は一ヶ月後に結婚する。彼女より3つ年上の男と、まるでドラマのように電撃的な恋に落ちた。相手の男とは何度か顔を合わせたが、まぁそれなりという感じの男だった。何が妹をそこまで引きつけたのかは知らないけど、特に表立って反対する理由もなかった。僕よりマトモな男だろうし、なによりそれは妹の人生だ。
今日は僕と妹、それに妹の相手との3人で酒を飲もうという話になっていた。妹の携帯電話には、少しばかり遅れるというメッセージがしっかりと届いていた。几帳面な男だ。
僕はシャンディーガフを1口飲んで続けた。
僕は思わず首をすくめる。
妹はクスクスと笑った後、バックからセーラムを取り出し、少し考え込んだ後、再びバックに戻した。禁煙を考えているらしかったが、おそらく妹の意志ではそう長くは持たないだろう。妹は真剣な眼差しでコリンズグラスを見つめた後、僕のほうを向いて言った。
僕の呟きを妹は聞き流す。
そう言って僕は、妹には悪いと思いながらも煙草に火をつけた。そこから、彼女の事を思い出すまでに、そんなに長い時間はかからなかった。
大学3年の当時、僕は家庭教師のアルバイトをやっていた。その事は、いつ思い出しても呆れてしまう。
やれやれ、僕が家庭教師だって。
どれだけ控えめに表現したところで、僕は絶対に家庭教師には向いていない人間だと思う。これは断言してもいい。僕は他人に何かを教える事ができるほどたいそうな人間じゃないし、口が下手だからいつもおかしな事ばかり言ってしまう。何か救いを求めるとするなら、僕自身がその事を自覚しているというぐらいだろう。少なくとも自覚がないよりは数倍マシだ。
だからこそ、僕はそのバイトを長くは続けなかった。春から夏の終わりぐらいにかけて。本当に短い期間だ。
僕が教えていたのは、高校3年生の女の子が1人だけだった。その事を知った数人の連れは、僕を羨ましそうな眼差しで見つめながら言った。
僕はため息をつきながら答える。
幸い……と言っていいのかどうかは分からないけれど、僕の不安は外れたようだった。普通の姿格好をした、丁寧な言葉づかいの女の子だった。ストライブのTシャツにジーンズといった格好の彼女は、僕を見ると「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。束ねた髪が静かに揺れる。
彼女は笑顔を崩さずに答える。もちろん、彼女もそういう返し方が、一番困る事を分かっていてやってるのだろう。首筋を掻きながら僕は言う。
彼女は納得いかない表情で頷く。
僕は苦笑いを浮かべて言う。
彼女はその言葉に対しては、なんの反応も返さなかった。
彼女を教えていて一番最初に印象に残った事は、凄く真剣な表情で参考書に向かうところだった。僕なんかが、流し見る程度にしか参考書と向き合わなかった事を差し引いても、彼女の眼差しは何か違うような気がした。まるで人間の寿命を決める神様が、1人1人を詳しく調べながら、ノートに記入しているような、そんな感じがした。
しかし、教えていて改めて思ったのは、家庭教師を頼む人間なんて、十分な能力を持っているんだな。という事だった。僕が感じた限りでは、十分に理解力もあるし、たいして苦労しなくても十分に志望の大学には進学できそうな感じだった。
だから、僕は家庭教師の時間の多くを雑談に費やす事になった。僕が持てるアドバンテージと言えば、長く生きた分だけ無駄な知識があるっていう事ぐらいだ。
そんな感じだ。
自己弁護にもならないかもしれないけど、彼女のほうも僕が話す事のほうに、ずっと興味を持っているように見えた。まぁ、当然かもしれない。僕だって高校生の頃は、そういう話に興味を持っていたのだ。1人で暮らす事や、新しい街との出会いや、家族と暮らしている場合には体験できない、様々な出来事を。
彼女は驚いた顔で言う。
彼女はため息をつきながら呟く。
僕は苦笑いで返す。しかし、僕はそんなに変わり者だろうか?
7月の終わり頃に、地元広島の友人、原口辰哉が遊びに来た。中学時代からの親友で、わざわざ、神戸のいいBARに連れていけというだけの理由で尋ねてきたらしい。俗に言う酒豪と言う奴だ。
そのスナックに毛がはえた程度のBARに、週2~3日のペースで通ってるお前は何なんだよ。と、よっぽど言おうかと思ったが、ややこしくなるだけなんで黙っておく事にした。こういう些細な事で反応を返していると、収集がつかないぐらいにずるずると長引いてしまう。いつもの事だ。
少し迷った末に、ラグというBARに連れていく事にした。僕もそこまで通っているわけではないけど、安くて味のバランスが取れたカクテルを出すので気に入っている。それに、小腹がすいたらサンドウィッチやオムレツも食べられる。
週末のラグは賑やかそうだった。この店には暗黙のルールみたいなものがあって、騒ぎたい奴は週末にやってきて、のんびり飲みたい奴は平日に集まるのだ。そんなわけで、この店の客層は見事なまでに二分化されている。珍しい店だと言えば、珍しい店だと思う。
カウンターの中でのんびりと煙草を吸いっていたオーナーは、僕を見つけると「よぉ、久々だな」と、軽く手を上げた。
辰哉のほうをチラリと見て、オーナーが言う。
オーナーは大げさに笑う。僕たちはカウンター席に座り、軽く肩を回した。運動不足を象徴するように、ポキポキという小さな音が鳴る。
オーナーの笑みにつられて、僕も笑みを浮かべる。
僕は驚いて、辰哉のほうを見る。辰哉は不思議そうな顔をして言った。
やり取りを聞いていたオーナーは、冷凍庫からマイヤーズのボトルを出しながら笑う。
僕と辰哉はその言葉を聞いて、往々に笑った。
1時間半ほど会話をしただろうか。尿意を感じ、トイレへと歩きだした。トイレのすぐそばにある洗面所では、先客が手を洗っているようだった。タイミングを外したかな。と思っていると、振り向いた先客が驚いた声で言った。
白石由希子だった。
足早に立ち去ろうとする彼女を、僕は呼び止める。彼女は不安そうな眼差しを僕に向けた。
いたずらが見つかった時に浮かべる、ごまかしのような笑みで彼女は言う。
彼女の笑みにつられて僕も笑う。
そう言って彼女は、あっという間に人ごみの中に消えていった。トイレから戻った僕を見て、辰哉は不思議そうな顔で言った。
僕はそっけなく呟いた。
そんな感じの出来事があった後も、彼女への家庭教師は普段と変わりなく続いていった。変化があったのは夏も終わろうとする頃の事だ。いつものように、彼女の家のインターホンを鳴らした時、不安そうな顔つきの母親がドアを開け た。
僕は少しばかり首を傾げる。
そう言って、僕はもと来た道を戻りはじめた。彼女の母親には言わなかったが、行き先の検討はついていた。
予想通り、彼女はラグにいた。何杯ぐらい飲んだのだろう。酔いが回っているらしく、トロンとした目つきをしていた。
そう言って、僕は彼女の隣に座る。一瞬、何が起こったのか分からないという表情で、彼女は僕を見ていた。
彼女はクスクスと笑った後、つぶやいた。
僕はバーテンダーにスプモーニを注文して、言葉を続けた。軽く見回してみたけど、オーナーは今日はいないみたいだった。
暫くの沈黙の後、彼女は言った。
そのまま彼女は黙り込んだ。僕はスピーカーに耳をかたむける。ジョンコルトルーンの演奏だ。ジャズは死んだなんてセリフをはいたのは、どこのどいつだったけ?
沈黙が言葉を急かしたのか、彼女は再びしゃべりだす。
彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。アルコールは時々、人の心を無防備にする。今の彼女は、軽く触れてしまうだけで、粉々になってしまいそうなぐらいに、脆く見えた。おそらく、何か声をかけてやるべきなのだろう。でも、いったい僕に何が言えるっていうのだ。
暫く考えた後、僕はつぶやく。
スプモーニを一口飲んで続ける。
彼女は小さく頷く。
彼女は不思議そうな表情で僕を見ていた。
再び沈黙が訪れる。しかし、今度は何かを急かすような沈黙ではなかった。やがて、彼女が口を開く。
彼女はそう言って、クスクスと笑いだした。
時々、ふとした拍子に、その日の事を思いだす。都合のいい解釈に聞こえるかも知れないけど、あの日、彼女は僕に抱かれる事を求めていたんじゃないだろうか?先生と生徒の肉体関係。そんな仮想のドラマを。自分が、そんなドラマの主役である事を。
そう思うのは僕の考えすぎなのだろうか?
妹の声に気づき、横を向くと妹の相手が到着したようだった。
彼、奥田徹は気持ちのいい笑顔を見せながらあいさつをした。僕があいさつを返すまで、イスには座らないつもりでいるらしかった。そこまで気を使われるのは、あまり好きではない。早々にあいさつを返すと、彼はやっとイスに座った。
妹は即座に言い返す。口ではやっぱり勝てそうにない。
兄妹けんかをしていてもしょうがないので、僕らは奥田の話を聞いて時間を過ごした。彼は広告関係の仕事をしているらしく、クライアントの無茶苦茶さと、スケジュールのずさんさについて、面白おかしく喋ってくれた。
暫くして、かなり酔ってしまった妹は、トイレに行くため席を立った。妹がいなくなると、突然に会話が止まる。まぁ、仕方がない事かもしれない。少しばかりの沈黙の後、奥田はポツリと呟いた。
奥田はおかしそうに笑う。
僕がその疑問を口にすると、奥田の笑いはピタリと止まった。
僕はぬるくなったシャンディーガフの残りを飲みながら続ける。
そう言ってお互いに笑う。妹はまだ帰ってきそうになかった。
それほど強い印象が残っているわけじゃないけど、妹との電話で記憶に残っている会話がある。あれは、僕が大学に進学して、一人暮らしを始めた直後だったと思う。
妹の声は、普段と変化もなく、他人事のような言い方だった。
僕は拍子抜けして言った。
時計をちらりと見ると、23時18分だった。窓の外からは、まだ人の声が聞こえてくる。僕は窓を閉めながら、呟いた。
妹だけじゃない。大概の女はそんな言葉を平然と吐く。予言者のように。妹は少し黙り込んだ後、「そうかもね」と、あっさり認めた。
電話なので表情は見えなかったけど、妹の声は明るいままだった。それが妙に痛々しく感じたのは、気のせいなのだろうか?
長い沈黙の後、奥田はポツリと呟いた。
彼と妹は、案外と似た者同士なのかも知れないな。と、思った。あの日、電話をかけてきた妹と、彼がなぜかオーバーラップして見えた。僕にできる事をいったら、曖昧な頷きを1つ返すぐらいだった。
ホテルのBARを出ると、風は妙に生暖かかった。酔いつぶれた妹を背中に背負ったまま、奥田は僕に言う。
僕は伸びをしながら言う。日頃の疲れが、肩の上にのしかかっている気分だ。
奥田は気持ち良さそうに微笑むと、「それじゃあ」と言って歩きだした。僕は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。その1本を吸い終える頃には、奥田と妹の姿は見えなくなっていた。
幸せになってくれればいいのに。皮肉でも冗談でもなく、真剣にそう思った。あれでも妹は、それなりの苦労もしてきたわけだし、幸せになってもいい頃のはずだ。あいつの不安が1つでも少なくなればいいのに。兄として、それは切実に感じる。
そういえば、妹が前に、こんな事を言ってたような気がする。
思わず苦笑いが浮かぶ。知らないうちに、あいつの不安の種の1つになってたんだっけ。でも、悪いけど、その不安はそうそうすぐには消えそうにはない。
ある女の子に手紙を貰った事がある。その子からは、最初で最後の手紙だった。
私には、幸雄の事が分かりません。
でも、きっと私以上に
幸雄には自分の事がわかっていないんじゃないでしょうか?
なんだか、冷めた意見になるけど、私は他人の事を第一に考えて行動する
なんて事は、素直に納得はできないし、信じてもいない。
だってそうでしょう。誰だって自分が一番大事だし
自分が傷ついても、相手のために何かするなんて、馬鹿げてるもの。
でも、幸雄はそれをやっているように見えます。
それは私にとって、ある種のカルチャーショックでした。
だって、そんな風にしてる人って、たいていの人が
他の人から良く思われたいってのが、みえみえなのに
幸雄の場合、それが全然感じれなかったから。
それがある時、ふっと思っちゃったの。
幸雄は自分のために何をすればいいのかが、分かってないんだって。
だから、そんな風に他人のことであれこれできるんだろうって。
分かってないわけじゃないんだよ。僕はその手紙を思い出しながら、心の中で呟いた。僕が望んでいる事なんて、世の中に溢れすぎていて、誰もそんなものを望んでいるって、素直に信じれないだけなんだ。
多分あの子も、もっときらびやかなドラマを求めていたのだろう。でも、それは僕が求めてるものとは、また違うものなのだ。自分の年齢を頭の中で繰り返してみる。28、随分と長い時間のように感じる。
でも、その28年が、そんなに周りから見て退屈さと平凡さに満ちた日々だったのだろうか?そんな事はないと自分では思う。胸踊るような事もあったし、とことん沈むような事もあった。ただ、何も残っていないだけだ。
僕は2本目の煙草に火をつける。
構うことはない。たとえそれが平凡で退屈そうに見えたとしても、それが僕のドラマだ。誰かに作られたわけでも、誰かのためでもない、僕自身のドラマなのだ。そんなドラマを、誰か1人ぐらいは気に入ってくれるかもしれない。
だから、とってつけたような演出も、口うるさいだけのスポンサーも、ややっこしい視聴率も欲しくはない。僕は僕自身で、そのドラマを続けよう。
僕はゆっくりと歩きだす。絹糸のように細い雨が、少しずつ降りはじめていた。