象の墓場

- Elephant's graveyard -
 

象の墓場の事をよく考える。この広い世界の片隅に、そう呼ばれる場所がちゃんとあるのだ。そこは岩場に囲まれたエアポケットのような場所だ。遠くから見ても誰も気づくことはない。だから、その正確な場所は誰も知らない。

自分の死期を悟った象は、他の仲間達に知られないようにそこを目指す。勿論、多くの象は年老いてそこを目指す事になる。巨体をゆっくり震わせながら、頼りない足取りで墓場を目指すのだ。彼らはその場所を誰かに教わったりはしていない。遙か昔から細胞の中に遺伝子レベルで刻みつけられているのだろう。お前はここで死ぬのだと。

やがて一匹の象が墓場へと辿り着く。そこに二匹の象が同時に辿り着く事はない。何故だかそうなっているのだ。象は少し鼻を揺らしながら目を細める。そこには無数の牙が墓標のように連なっている。生命の気配がない静寂と、ぬめっとした無言の牙の群の中で、彼はゆっくりと目を閉じた。

「もし私が死んだら、あなたは泣いてくれる?」

BGMのない喫茶店の窓の外をJR新快速が走り抜けていく。風切りと振動が作り出した轟音が遠ざかって消えてゆく頃に彼女はそう問いかけた。

「多分泣かないよ」

僕は表情を変えることもなく即答する。彼女は左手で頬杖をついたまま、予想通りの答えが返ってきたという具合に目を細めた。

「あのさ、いくらなんでもそれって薄情すぎない?」
「泣いて欲しいの」

彼女は苦笑いを浮かべる。

「そりゃあね、周りの関わった人がみんな泣いてくれて、あぁ、私はこんなにも思われていたんだって、満足して死にたいと思わない?」

胸ポケットからポールモールFKを取り出し、ウィンドミルのスリムライターで火をつける。煙を吐きながら揺らぐ紫煙を眺めた。僕は言う。

「死んだら、誰が泣いてくれてるかなんて、わかりゃしないよ」
「そんな事わかんないじゃない。幽体離脱で自分の体の前で泣いてる人たちの姿を見たって話だってあるでしょう。そういうのが本当に死んだときにだってあるかもしれない」
「可能性としてはね。でもさ」

僕は言う。

「それって、哀しすぎない?」

彼女は少しばかり俯きがちな視線で、僕の言葉の意味を考える。どこかのテーブルから誰かのハシャぐ声が聞こえてくる。何を言っているかはわからない。ただ、音の密度の差が妙に僕を寂しい気持ちにさせる。やがて、彼女は長いため息の後、僕に問いかける。

「つまりあなたは私が死んだところで、泣きもせずにいつも通り起きて顔洗って仕事に行って過ごすわけね」
「そうでもないさ」

僕は灰皿を見つめたまま、煙草の火を消す。

「休みを取って、どこかに出かけるさ」

尖った電子音だけがBGMとして流れている。古いゲームばかり集めた地下の10円ゲームセンターは、余計な音楽がない事がありがたい。プレイヤーキャラが死に電子音が変化する。コンテニュー画面で次の10円玉を入れる。その繰り返しだ。

幼い頃、時間を大切に使いなさいと教わった。時間だけは誰にとっても平等で、その使い方で人の成長が変わるのだからと。きっと親父にとってはこんなゲームは許し難い愚行だろう。 昔のゲームにエンディングなんかはない。一つのステージが終わる事に少しばかり敵が強くなり、その繰り返しがいつまでも続くだけだ。いつか僕が負けるときまで。

数え切れない敗北の後、僕は店を出て階段を登る。いつの間にか降り出した雨が、少しへこんだアスファルトに浅い水たまりを作っていた。薄暗い曇り空を見上げ、雨に濡れながら歩く。不毛だろう時間を過ごした後に分かることはほんの僅かだ。世界も時間もただ動き続けている。

NHKのニュースで表示された自殺志願者増加のテロップを眺めながら彼女が言った。

「そんなに死にたい人が増えてるのかしら」
「僕だってしょっちゅう思うぐらいだから、それなりに多いんじゃないか」

買ってきたばかりのMONOマガジンから目を離さないままで僕は言う。

「嘘?」
「嘘なんて言ってどうすんのさ」

ページをめくる僕の手を止めながら彼女は言う。

「ねぇ、こっち向いて」
「何さ」
「気分悪くしない?」
「しないよ。多分」

彼女はいつもより少しばかり真剣な目つきで、僕の目を見ながら言う。

「そういう人が身近にいたら、ずっと聞きたい事があったの。ねぇ?じゃあ、どうして死なないの?」

僕は本を閉じてテーブルの上に置く。

「他の人はどうかなんて知らないよ」
「分かってるわよ、そんな事」
「誰にも死んだ後の姿を見られたくないから。もしも今日、僕以外の人が全員死んだなら、明日にでも死ぬさ」

彼女は手のひらを組み、じっと考え込む。ニュースはいつの間にかスポーツニュースに変わり、メジャーリーグの結果を淡々と伝えている。

「じゃあ、もしあなた以外の誰にも発見されない場所があって、そこで死ぬことが出来るなら、あなたはすぐにでも死ぬの?」
「多分ね、そんな場所があるなら」
「私には分かんない」

彼女は首を振る。

「いいんだよ。分からなくて」

僕は立ち上がり、コーヒーメーカーからお代わりのコーヒーを二杯注ぐ。そして、背を向けたまま彼女に問いかける。

「君は?」
「え?」
「死にたいと思う?」

僕は振り向く。彼女は答える。

「長く生きたい」

象の墓場の事を考える。そこを目指す一頭の象として、僕はその場所のことを考える。僕はいつかその場所に辿り着くだろう。それでも、そこが本当に望んだ通りの場所なのかは分からない。願い事はいつも叶わない。その願いが強ければ強いほどに。

だが、僕はいつかその場所でそっと目を閉じる。無数の岩と骨と牙に囲まれて。そして、それはきっと孤独とはかけ離れたものだろう。

外は午前2時の雨が降り続いている。僕はただ眠れない時間を過ごしている。