テナガザルは歌を唄う。遠くから聞こえてくるのは、テナガザル達の歌だ。
ホーワホワホー、ホーワホワホー。
輪唱のように繰り返される中、1匹のテナガザルが私に言う。
黒い顔に鮮やかに輝く茶色い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。私は答える。
その長い腕でぶら下がったテナガザルは、微かに身体を揺らす。
そう言って、テナガザルは私に片手を伸ばす。その手にあるのはイチジクの実だ。私はそれを受け取る。イチジクは不自然に冷たくて重い。イチジクはこんなに重いものだっただろうか。
ホーワホワホー、ホーワホワホー。
私の言葉にテナガザルは黙って首を振る。
私は頷く。
私は首を振る。
ホーワホワホー、ホーワホワホー。
私はゆっくり頷く。手に持ったイチジクの冷たさが、全身に広がっているみたいだ。
ホーワホワホー、ホーワホワホー。
テナガザルは笑う。歌は続く。ホーワホワホー、ホーワホワホー、ホーワホワホー。私はイチジクにむしゃぶりつく。
猪本香澄は中学生になる前に、ノートに3つの事を書き出した。
- 高校を卒業したら地元を出る
- みんなから忘れられる
- 30歳で死ぬ
夢も願い事も少ない方がいい。私のような小さな存在が叶えれる願いなんて、3つが限界に決まっている。たった1つの願い事ですら、時間や労力という限りない対価を払ってやっと叶う可能性が出てくるものなのだ。あるいはもっと別の対価を払う事になるのかもしれない。ただ漠然と思うだけでは願い事は叶わない。
SNSで見知らぬ誰かが言っていた。タッキング。ヨットは向かい風の中、何度も帆の向きを切り替えながらジグザグに進むのだと。一直線に進むことはできない。だからたどり着くべき目的地を定めなければ、方向を見失ってしまう。
その通りだと私は頷く。だからこそ、終着点を定めないといけない。私は30歳で存在を忘れられたまま、誰にも気づかれないまま死ぬ。人が忘れられるにはどれぐらいの歳月がかかるだろう?人それぞれと言ってしまえばそれまでだ。だから10年と仮定する。それならば、20歳で消えれば良いだろうか?そう考えると、人の入れ替わりが激しい卒業のタイミングがベストだ。
とても自然でありふれた話だ。そうやって、逆算するように願い事を決めていく。
だとすれば、進学した事が自然に思われるように、それなりに勉強をしている子に思われなければならない。卒業後にすぐ地元を出るのであれば、それまでにお金も貯めなければならない。そんな事を考えながら、ノートを埋めていく。
スマートフォンの画面に、たむさんとマッチングしましたというメッセージが表示される。承認と拒否という2つのボタン。私は承認の文字をタップする。
アプリとは匿名通話アプリの事だ。同じタイミングでアプリを起動している人をランダムに結びつけ、実際に会話する事ができる。
短い沈黙。スピーカーの向こうから、グラスを揺らすような氷の音がする。
私は相槌を返す。ところで——たむさんは続ける。
バレる要素。私は生唾を飲み込む。その音が身体の中に響く。
例えばだけど——私は答える。
私はノートの記述に斜線を入れる。思いつきのようなアイディアは、こうやって潰されていくものなのだ。残るのはほんの僅かだ。あるいは何も残らないのかもしれない。でも——たむさんは続ける。
私は力無く同意の言葉を口にする。物語としてはそうかもしれない。でも、自分の未来にそれは求めていないのだ。
忘れられる事は意外と難しい。そんな事を考える。おそらくは逆なのだ。どこにでもあるような出来事はすぐに忘れてしまう。そうではない。そもそも、記憶すらされていないのだ。
目立たないように、みんなに溶け込むように過ごす。私が目指すべきはそこなのだ。同じような服装、髪型、喋り方、好物、好きなタレント、音楽、同じスマートフォンにどこにでもあるスマートフォンケース。私は女子中学生、女子高校生という記号と枠の中で日々を過ごす。
鏡に向かって話しかける。あなたは、だぁれ?私はただの女子高校生。
振り返ってみれば、私自身がその日常の事をあまり思い出せない。だから他の人から見ても、印象に残っていないだろう。
それでも幾つかの事は思い出せる。職場体験の話だ。
私、いや私たちが選んだのは、ある結婚式場だった。同じ班の子が、ウェディングプランナーとかいいよね!と言ってきたのに同意する形で選んだ職業だ。
ミニブーケを作ったり、フラワーシャワーを準備したりといった、それらしい体験は人気だったので私は地味な裏方っぽい作業を選ぶ。控室の整頓、ポットの給水、椅子を綺麗に整える。そういう地味な作業は集中してやれば、あっという間に終わってしまう。そのせいか、私が無人のつもりでドアを開けた神父控室には、ちょうど仕事を終えたばかりの神父が座っていた。
神父は 和か に言葉を返す。
私は近くの椅子に座り、神父を見る。服装を除けば、どこにでもいるおじさんに見える。でも何だろう、雰囲気のようなものが何か違う気がする。きっと良い人なんだろう。そんな気がする。
神父は淹れたお茶を差し出し、向かい側に座る。
そう言って受け取った暖かいお茶は、普段口にするお茶より、ずっと美味しく感じる。心が緩むような、そんな味がする。
少しばかりの沈黙の後、私は答える。
そう言って神父は持っていたコップをテーブルに置く。コトリという冷たい音が静かに響く。
神父の言葉が私の何かを刺激する。頭を下に向け、唇を噛む。その感情をできる限り表に出さずに顔を上げる。私は答える。
神父は微笑む。私は頷く。
それは宗教的な お伽話 だからじゃないだろうか?そんな事を考えながら私は頷く。そんな答えを求められているわけではないだろう。
解決しない悩みを抱えたままの永遠の生。確かにそれは地獄のようなものかもしれない。
私は何と返せばよいのか戸惑う。おそらく困惑の表情を浮かべていたのだと思う。神父はまた微笑みを浮かべる。
神父は手慣れた手付きで、胸元で十字をきる。映画みたいだな。私はそう思う。
自我が苦しみを内包したものだとすれば、本能的に刹那的に生きてしまえば、楽になるのだろうか?そんな事を考える。いや、そんな風に考えてしまう事すら自我的なものかもしれない。
女性は若ければ若いほど価値がある。職業的娼婦、パパ活、自分の価値を換金するなら、もっと上手いやり方はあるのだろうと思う。でも、それは何かが違う気がする。トー横、ドン横、グリ下。居場所の無い人たちの居場所はどこにでもある。
そんな風にして、私はここにいる。
ストローでストロングゼロを啜りながら、隣の子が上機嫌に話しかけてくる。
そう言って、その子は自分の身の上話を語る。貧乏で金が欲しかった事。売りをやってる先輩と知り合いになり、最初ぐらいは全くの他人じゃない方がいいと男を紹介してもらった事。自分の処女に5万円の値段が付いた事。そんな感じの話だ。
その子は先輩の家に転がり込んでいたが、先輩の彼氏に手を出して追い出されたらしい。よくある話だ。そんな話をしていたところに、別の子が声をかけてくる。
そう言ってその子が差し出したスマートフォンの画面には、トー横について書かれた記事だった。専門家、あるいは支援者団体。そうした人たちがそれぞれに語ってる。
感性の近い、似たような境遇の人たちと楽しく過ごして、満たされたような気持ちになっちゃう。そうした場所が居場所だと勘違いしてしまう。勘違いなんですよ。だってそこは、決して良いところなんかじゃないから。
私はそう返す。
本当に何も解ってない。
世の中に認知されれば認知されるほど、それを問題視する人が増えて蓋をされる。その繰り返しだ。目立つところだけ掃除をして、それで満足されるのだ。何も解決していないのに。
封鎖。あるいは集中的な補導。そうやって、私たちは排除される。どうせ場所が変わるだけなのに。
夜の街、サントリーの自販機横に一人座ってると、缶コーヒーを買った中年の男が声をかけてくる。
男は呆れたような表情を浮かべ、缶コーヒーを一気に飲み干す。そして、ゴミ箱に缶を押し込みながら言う。
そう言って私は立ち上がる。
近くのガストでご飯を奢ってもらい。男のアパートに行く。2Kぐらいの広さの飾り気のない部屋。どうせ風呂も入ってないんだろ。先に入れと言われて風呂に入る。何度も何度も何度も繰り返してきたようなやり取りだ。男が風呂に入っている間に、私はテレビを眺めている。何の番組かは知らないけど、名前も知らない芸能人が楽しげに笑っていた。
風呂上がりの男が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったまま1人で飲み出す。そろそろかな。そんな事を考えながら、私はベッドに腰掛ける。男は言う。
思ってたより大きな声が出る。
男は飲み終わったビールの缶を潰しながら言う。
男はまた呆れた表情を浮かべ、ソファーに腰を下ろす。
私は続ける。
そうだ。私は同情されるのが嫌なのだ。何も知らない人に可哀想だと思われるのが嫌なのだ。下に見られるのが嫌なのだ。
たくさんの支援者団体を名乗る人たちが私に近づいてきた。ありふれた優しい表情と言葉をかけてきた。でも彼らは気づいていないのだ。相手を可哀想だと思い、上から助けてあげようとする人が放つ、醜悪な臭いに。
君たちには未来がある。更生して幸せになろう。そんな意味の言葉を口にする。でも彼らは私の人生に何の責任も持たない。だからそんな言葉を口にできる。そこより少しばかりマシだと、彼らが思う場所に連れていく。それだけで良い事をした気持ちになれるのだろう。その先が地獄しかない場所だとしても。その先の結果は私の責任にされ、彼らの責任ではないのだ。
ふざけんな。私は下唇を噛む。
そう言って、男は私の方を見る。私は男の目を見る。何故だろう。私が今まで見てきた良い事をしてやっているという人たちの表情とは違う気がする。
私は頷く。
そう返答し、私は静かに考える。あのさ——私は続ける。
ベッドから立ち上がる。そして荷物を手にして続ける。
嘘ではない。その気持ちを私は素直に口にする。それなら、男の優しさをもう少し受け入れても良かったのかもしれない。でも、そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
玄関に向かう。キッチンに雑に置かれたスーパーの袋が見える。中にはいくつかの果物。一人暮らしのおっさんでも果物とか買うんだな。そんな事を思う。
私は袋に手を入れて、適当に取り出す。掴んだのは綺麗な赤褐色のイチジクだった。
冬が近づいている。冷たくなってきた風の中、私は夜道を歩く。そうだ、あれは小学生になる前の冬だった。その頃はまだ生きていた母親に怒られた話だ。捨てられていた仔犬を持ち帰り、元の場所に戻してきなさいと怒られたのだ。
生き物を飼うのは責任が必要だ。あなたはまだ自分の事に精いっぱいで、そんな責任は持てない。だから、そんな一時的な感情で、可哀想だからと連れて帰ってはいけない。
その通りだ。正しいのだろう。それは。
空を見上げる。上空では強い風が吹いているのだろう。雲が流れ、月がその姿を見せる。下弦の月。私はそれを見つめる。
もし、私が何か選択を間違えたのだとしたら——いや、明確に選択を間違えたのは、あの時だ。襲ってくる恐怖と暴力の中、あの時殺すべきは父親だったのだ。猪本香澄の心ではなく。
テナガザル達は笑う。
ホーワホワホー、ホーワホワホー。
テナガザル達は唄う。解っている。地元から出た私はみんなから忘れられて30歳までに死ぬ。30歳になるまでにはまだ時間がある。それまでに猪本香澄の心を取り戻し、結果的に私は死ぬのだ。それが彼女の願いと違ったとしても。
私は手にしたイチジクにむしゃぶりつく。これは私のエゴだ。