はじまりの日のことはもう忘れてしまった。もちろん、そのきっかけさえも。とにかく私は髪を伸ばしはじめた。必要最低限のカットは別として、ヘアムースをつけたり、染めたりすることも無く、私は髪を伸ばし続けていた。でも、それは昨日までのことだ。
シャキシャキという心地よいはさみの音が私の耳元で鳴り響き、伸びた髪の毛の長さに比例するように少しばかり大きめの音でパラリパラリと足元に落ちていく。私はずっと目を閉じたまま、その音に耳を澄まし続ける。一切の不必要な音はない。
髪の毛を切ろうと思ったきっかけはない。いや、正確にいうなら私は髪の毛を切ろうなんて、全く考えていなかった。ただ偶然に、いつもと違う道を歩き、そこで発見した美容院に入ろうと思っただけだ。そう、目的は髪を切ることではない。それはあくまで手段なのだ。私の目的はこの美容院に入ることだけであり、その目的はもうすでに果たされている。今、こうして髪の毛を切られていることは、ささやかで害のないおまけみたいなものだ。
そこまで考えて気づく。何も美容院に来たからといって、髪を切る必要なんてないじゃないかと。シャンプーだけとかセットだけとか、いくらでも手段はあったはずだと。
でも、私は何も後悔などしていない。忘れてしまったきっかけなんて、それはきっと重要なことではないし、今こうして髪の毛を切られている時間は決して嫌なものではない。どちらかというと、ずっとずっとステキな時間のようにも感じる。はさみと髪の毛の音だけの世界。柔らかい眠りに誘うように、私の神経をやさしく撫で続けている。
やがて音が消え去り、美容院の店主が低い声で、終わりましたよと話しかける。私は目を開けて、鏡の中にいる自分の姿をみる。背中を覆うほどの長さだった私の髪の毛は、今は4cm程度の短い長さで揃えられている。すでに私のものでなくなった髪の毛は、床一面に広がり、まるで黒い絨毯のようだ。悪くない。私は心の中だけでつぶやく。悪くないと。
店主の男は本当にこんなに短くしてしまってよろしかったのですか。と問いかける。しかし、その表情に一切の迷いはない。それは決して派手ではないにせよ、着実に仕事をこなすことを長い年月重ねた人の目だ。肌に貼りついた残り毛を刷毛で払われながら、私はうなずく。そうして、洗面台の前に置かれた椅子に座りながらまた目を閉じる。
シャワーから流れる水の音と、シャンプーやリンスがはいったボトルの音。男の手に髪を撫でられながら私はまた考える。そういえば、どうしてこの店では音楽が流れていないのだろう。それはとても不思議なことのようにも感じるが、私はすぐに否定する。この男の仕事から生まれる音、1つ1つが音楽なのだと。
シャンプーとブローが終わり、男が私に言う。よろしかったら、コーヒーでもいかがですか?それともお嬢さんのような若い方なら紅茶の方がよろしいかな?丁寧すぎるような言い方だが、男のしゃべり方に厭味は感じない。それは男の顎に生えた白髪まじりの髭のように、男に合ったしゃべり方だろうからと思う。ありがとう、コーヒーをいただきます。でも、いいんですか?ひょっとして、迷惑になるんじゃあ?
男はコーヒーメーカーのスイッチを入れながら、少し微笑む。構いませんよ、見ての通り客の少ない店ですから。それに他の方が予約などをされたときも、いつもこの時間も含めているんです。これが私の楽しみでしてね。
待合用のテーブル席に座り、二人でコーヒーを飲む。男はコーヒーの味をゆっくりと確かめるように目を細める。おそらく、男にとって満足のいく出来だったのだろう。男の口元が少し緩む。でも、私にとっては少しばかり苦い。それから、しばらくの間会話のない時間が続く。何か話しかけるべきなのだろうか?でも何を話せばいいのだろう?
私は再びうつむく。そして、時間だけが流れていく。
男はそう言って微笑む。その微笑みは、私にはいつどこにしまい込んだのかわからない何かに真っ直ぐに触れる。男はその事に気づいているのだろうか。わからない。私にわかることは心音の微かな変化だ。
会計を済ませ、美容院のドアを開く際に私は思い切って振り返り、じっと私を見ている男に向かって、声を出す。
男はまた微笑み、私は言葉を失う。私の中でうごめくのは、ただどうしようもない感情の揺らぎだ。それは言葉という形に押さえ込まれることを拒絶し続け、私を強く揺さぶり続ける。頭の中で繰り返される悲痛な叫び声だ。
男は頭を下げる。私は扉を閉める。
夕暮れの街を歩き、公園の吸水口で水を飲む。口の中に納まるよりこぼれる方が多い水は、詰まりかけの排水口の処理能力を超え、水たまりを作り出す。その中に映し出された髪の毛の短い私の姿に向かって微笑んでみるけどうまく笑えていないことに気づく。多分、何も変わってはいない。
ベンチに腰掛け、私は声も無いままに泣く。私はそうすることでしか笑えず、そうすることでしか眠れない。切り落とした髪の毛分の年月が経っていても、頭の中では叫び声が続いている。