オニオン&ペッパー

- Onion & Pepper -
R-15

思い出すという行為は、写経に似ている。一昨日の自分から、昨日の自分へ。昨日の自分から今日の自分へ。同じ言葉を何度も写しながら、経を渡していく。そこに書かれている言葉は同じでもあるし、別物でもある。止め、跳ね、払いといった文字の要素が少しずつ変わっていく。

ある文字は力強く、ある文字は流れるように。

一番最初にあった荒々しさのようなものは、どこかの段階で失われるかもしれないし、最初とは別の重さを生むかもしれない。時間が経てばあらゆるものが変化していく。思い出した出来事は、正しくもあり間違いでもあるという矛盾を内包している。

朝の5時に僕は庭で空を見上げる。幾つかの雲と、透き通った空が広がっている。煙草に火を着けながら、辺りを見回す。明け方の世界はどこか彩度が失われ、現実感のない夢のようだ。深く吸い込んだ煙を吐く。

さて、思い出そう。僕は声に出さずに考える。初めての習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。それが始まりだ。

「湖の上にぷかぷかと浮かぶ夢をよく見るの」

彼女は唐突にそう言った。

「湖に浮かぶ夢を見るの?」
「湖に浮かぶ夢をよく見るのよ」

復唱した僕の言葉を彼女は訂正する。

「凄く透き通った湖でね、まるで湖の底がすぐそこにあって、手を伸ばせば手が届きそうな感覚。そういう湖ってわかる?」

僕は具体的にそんな湖を想像してみる。誰も立ち寄らないような深い森の向こうに広がる湖を。透き通るような冷たい水を。そこに浮かぶ彼女を――

「ちょっと聞いてもいい?」
「何?」
「君は仰向けで浮いてるの?それともうつ伏せ?」

彼女は小さく笑う。

「普通は仰向けをイメージするんじゃない?」
「まぁ、確かに」
「とにかく、そんな湖に浮かんだまま、ゆっくりと沖に流されていくの。それで湖の真ん中辺りまで流されていった後で、すぅっと沈んでいくの」
「それで息苦しくて目が醒めるの?」
「ちっとも苦しくないの」
「まぁ、夢だからね」

彼女は首を振る。

「夢だからとかじゃないの。浮かんでいたり、身体が少しずつ冷えていったり、沈むごとに身体が重くなっていったりとか、そういう感覚ははっきりとしてるの。ただ、苦しくないだけ」

彼女は一呼吸おいて続ける。

「多分、それは水だけど水じゃないの。ねぇ、言っている事わかる?」
「何となく」
「そうやって沈んでる間、ずっと空を見てるわけだけど、透き通ってるからはっきりと見えるのよ。でも、たくさんの水の膜が重なってるせいか、何かが少しずつ変わっていくような感覚だけが残るの。全く同じ空なのに、これはさっきまで見ていた空と違うんだって」

僕は彼女の言う感覚をイメージしてみる。

「そのうち、湖の底に到着して、背中に触れた地面の感触で目が醒めるの」
「そういう夢をよく見るんだ」
「ねぇ、夢だと思う?」
「ごめん、質問の意味がよくわからない」

僕は少し驚いて言う。君はずっと夢の話をしていたんじゃないか

「湖の底で生活しているような感じがするのよ、時々ね。二つの世界を行ったり来たりしてるみたいに。わかる?」
「言わんとする事は」
「あなたはどっちの人かしら」
「どっちって?」
「空気の底で暮らす人と、水の底で暮らす人と。きっと後者ね」

ふぅ。と小さなため息をつく。もしここが湖の底ならば、見えないだけで、この小さなため息も泡となって上へと昇っているのだろうか?

「あなたは、そんな風に別の世界に行って来たような記憶があったりする?」
「無いね」
「そう」

そう言って彼女は微笑む。

「早く水の上に戻りなさい。多分、ここはそんなに長くいる場所じゃないから」

彼女が僕の前から消えたのは、それから少しばかりたった後の事だった。彼女の言葉を借りるなら、湖の底から戻ったという事なのだろう。

もちろん、彼女はある日唐突に僕の前に空から降ってきたわけではない。小中学校と新潟で僕と同じ学区で過ごし、お互いに別の高校に進学した後に、親の仕事の都合か何かで東京の方に引っ越し、その後に僕が大学と就職のためにやってきた神戸で再会をした。別に幻でも夢でもなく、僕の人生に真っ当な意味合いで関わってきた関係の子だった。

彼女と再会したのはセンター街にあるジュンク堂書店の中だった。立ち読みをしている僕を見つけた彼女が声をかけてきたのだ。

「良かった、人違いじゃなくて。久しぶりだね」
「よくわかったね。僕の方は誰だか気づかなかったよ」
「変わってなさすぎるのよ、あなたが」

彼女はそう言って笑った。

僕たちは近くのハーブス神戸でお茶を飲みながら、たわいもない話をして連絡先を交換した。今日はこの後予定があるから、また今度ゆっくり話しましょう。といった具合に。

「この近くに住んでるの?」
「中央区なんて高くて住んでられないでしょ。もっと西の方」
「僕は東灘だから逆方向だね。駅まで送ろうか?」
「送るような距離でもないでしょ。それじゃ、またね」

そう言って、彼女は駅の方に消えていった。

二、三週間に一度ぐらいの間隔で、僕と彼女は会ってお茶を飲んだり食事をしたりした。交わす会話は、本当に些細な事ばかりだったと思う。それでも、何かしらの爪痕のようなものを、彼女は僕に残していったのだろう。ある時、彼女は僕の家が羨ましかったという話をした。

「家が?羨ましがられるような家じゃないと思うけど」
「別にあなたの家限定ってわけじゃないのよ。私ね、稲刈りのお手伝いがしたかったの。ほら、家には田んぼが無かったでしょ」
「手伝いに行けばよかったんだよ」

僕は笑いながら言う。

「どこの家も人手不足なんだからさ、手伝いたいって言ったら喜んでこき使われたと思うぜ」
「そうかもね。でも、どこかでそれは違うって思ってたの。そんな収穫の美味しいところだけ手を出すみたいなのが」

彼女は続ける。

「土を作って、種を蒔いて、育てて、収穫して。そういう地に足がついた生活みたいなものに、どこか憧れてたのね」

地に足がついた生活。その言葉を繰り返そうかと一瞬考えて、僕はその言葉をしまい込んだ。

「まぁ、要するに振られたって事やろ?早い話が」

同僚は喫煙所で煙草を吹かしながらそう言った。

「振られるも何も、そういう関係は始まっても無いんですけどね」

僕は半分ほど呆れながら答える。残りの半分は、こいつに相談した自分自身への責めだ。仕事は出来る同僚ではあったが、大抵のことは色恋沙汰に持っていく人間だ。そのことを思い出すのが、ほんの少しばかり遅かった。

「そうは言うけどお前、男友達と急に連絡取れんなったら、同じように心配するか?」
「そこは、そこまで気にしないと思いますけど」
「やろぉ?」

同僚は、それみた事かという表情を浮かべる。

「心のどっかでな、そんな風に期待しとるから引っかかんねん。まぁ、連絡取られへんかったら仕方ないやん。別のおねぇちゃんでも抱いたら、そんなんすぐ忘れられるわ」
「はいはい、先に仕事に戻りますね」

深い溜め息を吐きながら、僕は喫煙所を後にした。

帰宅途中、携帯に同僚からメールが届く。本文無しにURLだけが書かれたメールで、リンクをクリックしてみると、画面に福原のソープランドが表示される。

あの馬鹿、何考えてんだ。そう思わず声に出しそうになったと同時に、僕は自分の目を疑う。そこには下着姿の彼女が映っていた。

「冗談だろ」

携帯をポケットに突っ込みながら、僕はそう呟く。

帰宅後、同僚が送りつけてきたサイトをもう一度確認する。そこに載っているなぎさという源氏名の女性は、どこからどう見ても彼女だった。確かに僕は彼女がどこでどんな仕事をしているのかは知らない。彼女がそこで働いているというのは、どうにもイメージが出来なかった。さて、考えてみよう。知り合いかもしれない人物が性風俗で働いていて、その人にもう一度会いたい場合、どうするのが正解なのか。

店の従業員出入り口の近くで張り込む。いや、そんな事をすれば、従業員に捕まえられても不思議はない。では、最寄駅で張り込む。僕は首を振る。どの駅で待つつもりだ。

同僚の下卑た顔が脳裏に浮かび、その日一番大きなため息を吐く。結局選択肢なんて無いのだ。

その日、僕は一時間ほど携帯電話をただ睨んでいた。

予約した日に有休を取り、電車で神戸駅に向かい、そこから湊川駅の方向へ歩く。福原町の通りまで来ると、「路上での呼び込みは条例で禁止されています」という看板が見えた。それなら少しぐらいはマシだろうと、店を探し出してから1分もかからないうちに、僕は自分の考えが甘かった事を理解した。

「お兄さん、これからですか!いい子居ますよ!」

いろいろ考えるものだと思う。店の敷地から一歩たりとも出ないのであれば、そこは路上では無いのだ。着いてきたりしないだけマシといえばマシだけど、それでも一歩進む事に視線が向けられるのは気持ちがいいものではなかった。

予約した店に入ると、一瞬の間も置かず、ボーイが話しかけてくる。

「いらっしゃいませ、ご予約のお客様ですか?」

僕は予約の時に使った偽名を伝える。

「なぎささんを以前に指名された事は?」
「無いよ。というか、店自体が初めてだから」
「わかりました。それではこのシートに記入しながら、あちらでお待ちください」

僕はプレイシートと書かれた紙と番号札を渡され、待合室に通される。そこには8人ほどの男がソファに座りながら、思い思いの方法で時間を潰していた。空いてるソファに座り、煙草に火を着ける。平日の昼間から何でこんなに人がいるんだか。

プレイシートの内容をざっと見る。受けですか、攻めですか、何回戦希望しますか、と事務的な質問が並ぶ。ボーイに、これ全部記入しないとダメなの?と聞きたい思いに駆られたが、待合室には客しかいないみたいだった。ため息を吐きながら、全ての質問にお任せを選ぶ。

煙草の煙を頭上に吐きながら、ざっと待合室を見回す。1つのビルの中で、これだけの人が性行為をする目的で集まっているというのは、どうにも奇妙な感覚だった。もっとも、向こうから見たら僕も同じように思われてるのだろう。

やがて僕の番号が呼ばれる。

「エレベーターの中で女の子がお待ちです」

ボーイはそう言って僕の口の中にミントスプレーを吹きつける。ベルトコンベアで運ばれてるみたいだな。と思う。非常にシステマチックで事務的だ。

エレベーターの中で待っていた子は、僕の探していた彼女とは別人だった。とてもよく似ているけど別人だという事は一目でわかった。閉じていくエレベーターの扉の向こうからボーイの「お時間までごゆっくりお楽しみくださいませ」という声が聞こえた。

「お兄さんさ、私を見てがっかりしてたでしょ。そういうのってさ、隠してるつもりかもしれないけど、よーくわかるんだからね」

僕のジャケットをハンガーにかけながら、なぎさは言う。

「ああ、ごめん。気を悪くした?」
「まぁ、パネルとかの写真なんて加工してるもんだからさ、そりゃ多かれ少なかれイメージと違うかもしれないけど、私はまだマシな方だと思うんですけど」
「見た目にがっかりしたとかじゃ無いんだ。もしかしたら、知人じゃないかと思ってたんだけどね、別人だったから」
「ふぅん」

否定とも肯定ともとれるニュアンスで呟いた後、なぎさは僕の隣に腰を下ろし、僕の顔を覗き込むように見上げる。

「知り合いの人とここでヤりたかったって事?それ、ちょっとマニアック過ぎない?」
「ずっと連絡が取れなかったから、話がしたかっただけだよ。別にそれ目的で来たわけじゃない」
「ふぅん」

少しばかり否定のニュアンスを込めた声色を出す。

「でも私がその人だったとして、お兄さんに会いたくないと思ってるんだとしたら、今頃ここには入れてないと思うよ」
「どういう事?」
「こういう店ではね、待合室で撮った映像がちゃんと黒ちゃんから回ってくるの。なぎささん、次はこのお客様ですがよろしいですか?って。で、その時点でNGとか出せるわけよ。体調崩したとか適当に理由をつけて」
「そうなの?」
「当たり前でしょ。エレベーターに乗ったら、隣にいた女の子が自分の娘だったとか修羅場でしょ。そんな事で騒動が起きたら誰も得しないわけ」

僕は頷く。確かにその通りだ。

「まぁ、いいや。ため息には傷ついたけど、理由はわかったから許してあげる。じゃあ、服脱ごうか。自分で脱ぐ?それとも脱がして欲しい?」
「いや、だからそういうつもりじゃ」
「あのね」

僕の言葉を遮るように、強い口調でなぎさは言う。

「お兄さんがそういうつもりだったかどうかは、この際重要じゃないの。そりゃ何もせずに時間が過ぎるまで待つのは何も問題ないよ。別に毎日報告書で、この時間帯のお兄さんからは2回抜きましたとか提出するわけじゃないからさ。でも、すぐ出て行かれると色々追求されるわけ。そこまでは理解できる?」
「わかった、時間まではいるよ。でも」
「次に」

なぎさはまた、僕の言葉に被せる。

「お兄さんが何もしないとなると、他の子はラッキー、楽だなとか思うかもしれないけど、私は嫌なわけ。たまに上手く勃たないお兄さんとか来ると、私は傷つくわけ。別にお兄さんにそういうつもりがあろうと無かろうと、私の性的価値を否定されたような気持ちになるの。お兄さんは一度私を傷つけたわけだから、次は傷つけないようにする義務があるんじゃないかしら?最後に」

一呼吸置いて、なぎさは続ける。

「私はこういう場所で、ヤる気は無いんだっていう男を信用しない事にしてるの。お兄さんは誰かに聞いて欲しい吐き出したい事があるんだろうけど、信用出来ない男の言葉なんて、私は壁みたいに無機質な反応しか返せないの。それは誰の立場から見ても不幸なことでしょう」

なぎさはそう言って、自分のワンピースを脱ぐ。

「とりあえずさ、終わってから話そうよ」

「なんだ、ちゃんと勃つんじゃない」と、なぎさは言う。

「勃たないなんて言ってない」と、僕は答える。

「つまり、そんな風にして居なくなっちゃった子を探してるわけね」

ベッドに寝転んだまま、なぎさは言う。

「あのさ、ちょっと酷いこと言ってもいいかな?」
「どうぞ」
「そりゃ、女の子は基本的に我儘だからさ、もう嫌!二度と会いたくない!とか言って出て行った直後に、何で追いかけてきてくれなかったの!馬鹿!みたいな事はあったりするよ。でも、私が思うに、今の状況はそういうのとは違っていて、その子は本当にお兄さんと連絡を取りたいとは思っていなくて、それでも探したいというのは、お兄さんの身勝手なんじゃないかな?」
「言いたいことはわかるよ」
「でもいいんじゃない。そんな風に自分の我儘を通さない限りは、どうにもならない事があるのよ。世の中にはたくさん」

沈黙の中、時間を告げるアラーム音が鳴り響く。なぎさは起き上がりながら、僕の胸を強めにポンと叩く。不意を突かれて、むせ返りそうになる僕を見下ろしながら言う。

「ほんとにガードの固いお兄さんだね。やっと一つ壁を乗り越えたかな?と思ったら、またすぐに次の壁がある。さてさて、何個の壁を乗り越えたら、お兄さんの本音が出てくるのかな?」
「別に拒絶してるつもりはないよ」

なぎさは僕の言葉に耳をかさず、顔を近づけてじっと目を見る。思わず目をそらしそうになりながらも、僕はなぎさの目を見返す。やがて、顔を遠ざけながら、なぎさは言った。

「この世で一番自分のことが大嫌いだって顔してるよ」
「なんでそう思う?」
「女の勘」

そう言って、なぎさは笑う。

「さぁ、行きましょうか」

エレベータの中で、「また指名してね」と言ったなぎさに対して、僕は「わかった」と答える。扉が開き一歩外に出るとボーイ達の「お客様、お帰りです。ありがとうございました」という大声にかき消される程度の小さな声で、なぎさは囁いた。

「じゃあね、嘘つきのお兄さん」

一瞬振り返った僕の目に映ったのは、閉じられていくエレベータの扉だけだった。

外に出て見上げた空は薄曇りで、息苦しさとじんわりとした重さが、身体にまとわりつくみたいだった。「さて」と僕は小声でつぶやく。

さてさてさて……

頭の中で同じ言葉が反響し続けた。

携帯電話の液晶に表示されたのは見覚えのない番号だった。僕は不審に思いながらも、応答ボタンを押す。

「やぁ、嘘つきのお兄さん。元気してる?なぎさだよ。今大丈夫?」
「ちょっと待って。なんで僕の番号がわかったの」
「ほんと世間を知らないお兄さんだね。お店に電話かけたでしょ。その時に、ちゃんと番号は記録されるの。予約するだけして来ない人の対策としてね」
「そこから、こんな感じに営業電話に使われるわけか」

電話の向こうから、なぎさの小さなため息が聞こえる。

「ねぇ、お兄さん。ちょっとは考えてみてもいいんじゃないかな。そりゃ電話で営業かけたらほいほい釣られる男の人なんていくらでもいるけどさ、私がお兄さんをそのタイプだと思ってるように感じる?それとも、そういうタイプだって自覚でもあるの?」

いや——と僕は否定する。

「少なくとも、そのタイプじゃないと、自分では思ってるよ」
「でしょう。だったら、私はそんな非効率的な営業はしないよ。この電話は、私からのささやかな好意だと思って欲しいな」
「好意?」
「そう、好意。お兄さんは、私に凄くよく似た子を探してるんでしょ。だからさ、他の子とか黒ちゃんとか店長に聞いてみたわけ。私に凄くよく似た子が近くの店で働いてないか?ってね。まぁ、結果的には、そんな子はいないって結論だったけど」
「ありがとう。でも、どうしてわざわざ調べてくれたんだ?」
「お兄さんは当事者だから実感が無いかもしれないけどさ、普通に生活してて、居なくなった人を探す事って、そうそう無いことだと思わない?」
「そうそう無いと思うよ」

当たり前だ。と僕は思う。そんな頻繁にあってたまるか。

「でしょう。だから、少しぐらい手伝ってみるのもいいかな。と思ってさ。人探しなんて、滅多に出来る事じゃないでしょ。そのお手伝いの分、全部終わった後にお話してもらうの。悪くない取り引きだと思わない?」
「終わりがあればね」
「ねぇ、面白がられてるみたいで不愉快になってる?」
「いや、大丈夫だよ。そもそも、探すっていっても、何をどうすりゃいいか検討もつかないんだ。だから、そんな風に僕の気づかないところに手を回してくれるのは助かるよ」
「ふぅん」

短い沈黙の後、なぎさは言う。

「まぁ、話を戻すと、この近辺、福原界隈の真っ当なお店には、お兄さんの探してる子は居ないと思うわ。そっちは?」
「さっきも言ったと思うけど、探すっていっても、何をどうすりゃいいか検討もつかないんだ」
「その子の実家とか、調べられないの?」
「どうやって?」
「ねぇ、お兄さんには友達はいないわけ?引っ越していったにせよ、普通なら年賀状のやり取りなりなんなりで、痕跡ぐらい残ってると思うんだけどさ」
「言われてみればその通りだな」

何で僕はその程度のことに気づかなかったのだろう。

「確かに終わりは簡単にきそうにないわね。じゃあ、何か進展があったら教えてね」

そう言って、なぎさは一方的に電話を切った。

押し入れの奥に押し込められた古い段ボール箱を探した。確か大学に進学し、神戸に出てきた際に、無理やり持って行かされた卒業アルバムがあったはずだった。なぜ無理やり持たされたのか、当時はわからなかったが、父も母も僕がもう戻ってこない事に感づいていたに違いない。多分。

卒業アルバムには全員の卒業当時の住所が載っていたはずだ。その中の誰でもいい。地元に残っていそうな奴の見つけて、連絡を取る。彼女の仲が良かった友達の名前を聞く。今度はそちらに連絡を取る。手順としては間違っていないはずだ。

違和感——

埋もれていた卒業アルバムを取り出す。最初に連絡を取る相手を見つけようと、ページを捲る。

違和感——止めが、流れに。払いが、跳ねに。

何かに心臓を直接わしづかみにされたまま、後頭部を思いっきり金槌で叩かれたような衝撃とともに、僕は卒業アルバムを閉じた。

落ち着こう——そう自分に言い聞かせて、煙草を取り出す。咥えて火を着け、深く吸う。チリチリという葉の燃える音を聞きながら、煙を吐き出す。フィルターを強く噛む。

僕はもう一度、中学時代の卒業アルバムを開く。当時のクラスメイト達の顔が並ぶ。二段目の右から三番目、高橋夏実は写真は苦手といった感じに、はにかんだような笑顔で写っている。

思い出せ!僕は声に出さずに叫ぶ。止め、跳ね、払い、習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。

三宮のセンター街にあるジュンク堂。僕はあの日、北欧デザインの家具の本を読んでいた。そこで、不意に後ろから名前を呼ばれて驚く。怪訝そうな顔で振り返る。ベージュ色をしたジャケットコート姿のショートボブの彼女が笑顔を浮かべる。

「え?」
「ほら、中学の時に一緒だった、高橋。高橋ナツメ。良かった、人違いじゃなくて。久しぶりだね」

彼女は、誰だ?

三ノ宮駅東口近くのニシムラコーヒーで、僕と向かい合わせに座ったなぎさは、考え込んだ表情で空のコーヒーカップを見つめていた。

「つまり、お兄さんが探している高橋さんは、お兄さんが知っていた高橋さんじゃ無かったって事?」

なぎさは呆れたような声で言う。

「そういう事になるね。僕の思い違いじゃなければ」
「ふぅん」

コツ、コツ、コツと、左手の人差し指でテーブルを叩きながらなぎさは考えこむ。その音は僕の頭のどこかにある扉を、規則正しくノックしているように感じる。

「まぁ、普通に考えてみたらさ、偶然にも高橋ナツメさんに、お兄さんと同姓同名の知り合いが居て、お互いに勘違いしてたけど先に向こうが気づいちゃって、恥ずかしくなって思わず連絡を絶っちゃった。みたいな話になると思うんだけど」

視線を僕に向けて、なぎさは続ける。

「それとは違うんだよね」
「多分ね」

そう言って、僕は小さくため息を吐く。うつむき気味に視線を逸し、続ける。

「いや、その通りかもしれない。正直言って、今はどんな考えにも自信が持てないんだ。それぐらい弱ってるし、まいってる」
「やれやれね」

そう言って、なぎさは続ける。

「もし、私がお兄さんの恋人なり母親だったりするならさ、よしよし、可哀想だね。って慰めてあげるし、ぎゅっと抱きしめてあげるんだけどさ、残念だけど私はどちらでもないし、よしよししてあげるほど優しくもないの。なよなよした男の面倒見たって、何も楽しい事はないでしょう?」
「その通りだと思うよ」
「だからね、一つだけ教えてあげる。人生は粒胡椒みたいなものだって思うの」
「粒胡椒?」

僕は顔を上げる。

「どういう意味だ、それ?」
「つまりね、生きるって事はたくさんある硬い硬い粒胡椒を一つ一つ割っていくものだって思うの。もちろん、上手に割れなくて香りも素っ気もない嫌な味が広がるかもしれない。でも、そこで後悔して止まってたら、どんな香りも刺激も無い人生になっちゃうでしょ。また、ちゃんと次の粒胡椒を割っていくの。わかる?」
「わかる」
「本当よ、これ。私は十五歳の頃にそう確信したの」
「十五歳の頃に何かあったの?」

僕がそう言うと、なぎさは静かに首を振った。

「そういう優しい素振りはいらないのよ、嘘つきのお兄さん。だいたい、弱ってる人間が、他人の過去なんて受け止める余裕なんて無いでしょう」

そう言って、なぎさは立ち上がる。

「今日はもう帰るから、次の時までにはもうちょっとマシな顔をしてなさい。男の子が女の子と会う時には、ちゃんと女の子に楽しい思いをさせてあげるだけの元気を溜めてからくるものよ」

そう言って、なぎさは駅の方に消えていった。その後ろ姿は、僕の記憶の中の高橋ナツメにそっくりだった。

それから二週間ばかり、僕は可能な限りややこしい事は考えずに普通に過ごすことを心がけた。早く起き、早く眠り、きちんと食べ、掃除や洗濯をした。多分、そうしている間にも、分断された意識の向こう側で、刻々と考えごとは続いていたのだろう。

その日は、夕食の付け合わせにサラダを作っていた。冷蔵庫でよく冷えたトマトを薄くスライスする。玉ねぎと青じそをみじん切りにして、その上に散らしてドレッシングをかける。簡単なサラダだ。

台所で僕の肘が当たり、出来上がったサラダは皿が割れる音とともに床に散乱した。床に広がった赤いトマトと白い玉ねぎと透明なガラスの破片を見下ろしながら、肩を落とす。夜に一人、床に散らばった食べ物を片付ける事は、世の中にたくさんある惨めな事のランキングの中でも、かなり上位に来るだろう。

「わかったよ」

吐き捨てるように、実際に声にする。多分、僕にはきっかけが必要だったのだ。たとえそれが、もう嫌だ、ここを放り出してどこかに消えてしまいたい。そんな後ろ向きな理由であったとしても。

週末、新神戸駅から東京駅に向かい、そこから上越新幹線で浦佐駅へと向かう。駅で降りる人はそんなに多くはない。新神戸と対して変わらない。大抵の人は、手前かもっと先へと進むのだ。ホテルのチェックイン時刻には早かったので、西口に周り普光寺まで歩いた。昔からある有名なお寺だけど、住んでいた頃には興味も持たず足を運んだりしない。そんなものだろう。多分。

拝観料を払うまでの興味は持てなかったので、建物の見える場所で駅に置いてあった観光案内に書かれていた内容を読む。坂上田村麻呂が開いた毘沙門堂の管理するために建てられた寺らしい。征夷大将軍・坂上田村麻呂。

昔、何かで読んだ気がする。蝦夷との戦争。アルテイとモレ。アルテイは蝦夷の英雄だったらしい。でも、その英雄譚は完全に失われている。敗者の歴史は殆ど残らないし、語られる事もないけど、アルテイは田村麻呂伝説の悪路王とされているらしい。宮沢賢治も詩にしていた。

  Ho!Ho!Ho!
    むかし達谷の悪路王
    まつくらくらの二里の洞
    わたるは夢と黒夜神
    首は刻まれ漬けられ

  アンドロメダもかゞりにゆすれ
    青い仮面このこけおどし
    太刀を浴びてはいつぷかぷ
    夜風の底の蜘蛛をどり
    胃袋はいてぎつたぎた

その詩は、とても宮沢賢治らしく終わる。

  消えてあとない天のがはら
  打つも果てるもひとつのいのち
    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

アルテイと悪路王、悪路王の青い仮面姿、伝説に出てくる鬼たち。別々の姿のひとつのいのち。

「さて」

僕は声に出して時計を見る。そろそろチェックインの時間だった。

チェックインの決まりきった手続きを終え、シングルルームのベッドで横になる。少し距離があるにせよ、ここも僕が生まれ育った魚沼の街だ。さて、これからどうする。僕は考える。高橋ナツメは、魚沼のことを何か話していただろうか?僕は思い出す。確かあれば、東門通りを一緒に歩いていた時の事だ。

「そういえばさ、自分で決めたとかじゃなくて、親の事情で転校するのって、どんな気分だったの?友達と離れてりするわけだから、嫌だった?」

ナツメは少しの間、考えこむように空を見上げ、答える。

「機嫌悪くしたりしない?」
「しないと思うよ」
「ほっとした」
「そうなの?」
「小学校の図書室にさ、魚沼の昔話の絵本があったの覚えてる?」
「詳しくは覚えてない」

ふぅ。とナツメは白い息を吐く。

「小さいころにそれを読んでね、凄く嫌な気分になったの。なんて酷い話なんだろうって。それも自分が住んでる地域の話でしょう。それが子供ながらにうまく処理できなかったんだと思う。普段、通学路で笑顔で挨拶してくれるおじいちゃんやおばあちゃんも、みんなこのひどい話に出てきた人の子孫なんだって。だから、そこから離れられる事にほっとした」
「でも、酷い民謡なんて、日本全国にあるぜ」
「わかってるわよ。だから、それ以来、一切民謡とか読まないようにしてるもん」

そう言って、ナツメは僕を見る。

「知らなければ気にならない事でも、知ってしまったらダメな事だって、たくさんあるでしょう」

魚沼の昔話といえば、「お松つぁまの池」と「弥三郎ばさ」辺りだろう。確か、お松の池という池が、六日町駅の方にあったはずだ。僕は早速ホテルを出て、六日町に向かい、そして軽く後悔した。

お松の池は、カタクリとどんぐりの道という、トレッキングコースの一部になっていた。それも往復九キロメートルという道のりだ。もちろん、タクシーで行くこともできるものの、コースの途中途中に民謡の説明パネルを配置してくれているらしい。ありがたくて涙が出てくる。

「歩けって事だよな」

僕はため息を吐いて進む。

お松は大抵の悲劇の主人公同様に、気立てのよい優しい働き者の娘だった。

長く厳しい北国の冬。機織りは女の仕事だった。
きちんとした立派な反物を仕上げて、初めて一人前の嫁として認められた。

誰に?多分、みんなに。

伝えるのは、姑の役目だった。
一人前の嫁にしてやりたい。お松はいい嫁なんだから。きっと出来るから。
日々の厳しい指導が続く。

答えるのは、嫁の役目だった。
なぜ上達しないのだろう。あんなに一生懸命なおっかさまに申し訳ないじゃないか。
何年も何年も続く努力。

申し訳ない。
申し訳ない。
申し訳ない。

お松は笑わない。そして祈る。

「神様、お願いします。私はどうしようもない程に不出来な嫁です。もう、ここでお世話になる資格もありません。でも、でもせめて、たった一度でいいんです。今まで、たくさん、たくさん世話をして頂いた、おっかさまに恩返しをさせてください。お願いします」

命を、魂を、少しずつ削り、糸と合わせて織り込むように。
その一枚は、大変な高値で売れる。姑は駆け足で、家へと向かう。

「お松、お松。やったよ、ついにお前が認められたんだよ。お前は本当によく出来た嫁だよ。素晴らしい自慢の嫁だよ。今まで辛かったろう。ごめんよ。でも、お前は認められたんだよ。良かった。本当に良かったよ。ねぇ、お松」

ガラリと開けた引き戸の向こうには誰もいない。
最後に吐き出した吐息が、あぶくとなって水面に浮かぶ。
姑は膝から崩れ落ち、涙を零す。

そんな話だ。

この話の哀しさは、そこに善意と祈りしか存在しないところにあると思う。

目の前に大きな池が広がる。まだ花を咲かせていない桜の木が並ぶ。時期が時期であれば、きっと綺麗な場所なのだろう。池の中央には橋があり、社がある。お松さんが祀られているのだろうか?そこまで足を伸ばそうとして、躊躇して首を振る。きっと、これ以上祈りを重ねるべきではないのだろう。

僕は来た道をまた引き返す。

翌日、電車に乗り、地元の越後堀之内まで向かう。どうせなら、自分が住んでいた頃によく足を運んだ図書館に行こうと思ったのだ。駅を降りて、ついでに高橋夏実が昔住んでいた家の前まで足を伸ばす。当たり前のように、そこには別の表札が掲げられていた。まぁ、いいさ。何かを期待したわけじゃない。

堀之内小学校を眺め、魚野川に出る。川沿いを歩きながら、堀之内中学校へ。長く地元を離れるというのは、こういう事なのかもしれない。通い慣れたはずの道なのに、今は違和感だけが残る。

中学校から駅の方向へ戻り、堀之内公民館図書室にたどり着く。元々、大きな施設でもない。広くない閲覧コーナーにも、二人ほどの人がいるだけだった。

僕は弥三郎ばさを手に取り、読み始める。

昔々、弥三郎という猟師が妻と息子の三人で仲良く暮らしていた。
でもある日、雪山に猟に出かけた弥三郎は、そのまま帰ってこなかった。

残された妻は必死に息子を育てる。やがて成長した息子は父と同じ漁師になり、嫁を取り、子が産まれる。しかし、息子もまた父親と同じように雪山から帰ってこなくなる。そして、妻も悲しみのあまり後を追う。

残されたのは、ババと乳飲み子だけ。
どうして、それだけで暮らしていけよう?
ババは孫を抱き、村中を周る。

「お願いじゃ。お願いじゃ。このババの事はどうでもえぇ。孫のために乳を。乳を別けてくれ」
「不憫じゃのぉ。ええよ、おいで。乳を別けてやろう」

でもやがて、誰ともなく言い出す。

「あの家は殺生を重ねた家系じゃ。呪われた一族じゃ。山の神が、仏様がお怒りなんじゃ」
「関わっちゃならん」
「関わっちゃならん」
「関わっちゃならん」

飲むものも飲まず。
食うものも食わず。
薄い布団に包まりながら時が過ぎる。
空腹に泣く孫の声をいつしか止まり、冷たい躯を抱きかかえながらババは言う。

「なぜじゃ。なぜじゃ。わしらが一体何をした。殺生か。仏罰か。では、この子に何の罪がある。産まれたことが罪か。なぜじゃ。なぜじゃ。では、貴様らはどうじゃ。一片の肉も口にしておらぬか?一滴の血も落としておらぬか?ひとひらの命も奪っておらぬのか?くやしい。くやしい。くやしい」

力を込めた腕に揺られ、孫の躯がババの口元に触れる。
何かが壊れ、ババは孫の首筋に喰らいつき、その肉を噛み千切る。

吹雪の晩は弥三郎ばさが来るぞ♪
悪ぃ子さらいに弥三郎ばさが来るぞ♪

中学だか高校だか、文化祭の出展で弥三郎ばさの展示を見たことがある。細部は異なれど、日本各地に同じ話があるという発表だ。善意に満ちた人たちが、一瞬で変わるという事実は、それこそ何処に行っても変わらないという事なのだろう。多分、ナツメに何かしらのトラウマを残したのはこの話なのだろう。確かに受け取り方次第では、キツすぎる話だ。

グリム童話が改変されたように、この話も複数の終わりがあるらしい。例えば、その後に偉いお坊さんが訪れて、ババを説き伏せ鬼から菩薩に変わるような展開だ。でも、と僕は思う。

それは救いか?

本を閉じ、脱力するように天井を見上げる。たしか、ここで高橋夏実と本の話をした事もあったはずだ。書庫に行き、その時の本を取り出し、ページを捲る。

「何読んでるの?」

向かいの席に座りながら、夏実が僕に言う。

「世界最悪の旅」
「何それ?どんな本なの」
「南極探検で死んじゃったロバート・スコットの話だよ」
「たしか、アムンゼンに先越されちゃった人よね」
「そう、彼らが南極点にたどり着いた時、そこにはノルウェーの旗がなびいてたんだ」
「それを見た時は、きっと凄いショックだったんでしょうね」
「多分、違うと思うよ」

僕は言う。

「ソリなんかの痕跡から、もう先を越された事は解ってたと思うんだ。少なくとも先に進まれてる事ぐらいは。自分が一番乗りじゃないって事が解ってたうえで、それでも進まなけりゃいけなかったところが、この話の悲劇的なところだと思う」
「そうなの?」
「そうさ。この本によるとね、そもそも彼らは別に南極点になんか行きたくなかったらしい」
「どういう事?」
「彼らは南極の調査がしたかったんだ。ペンギンの生態とか、地質とか。でも、そんなものに誰もお金を出しちゃくれなかったんだ。だから、南極点一番乗りみたいなウケの良い目的を打ち出すしかなかった」

ロバート・スコットの日記にはこう書かれていた。

リスクが有る事なんて承知だったさ。文句をつける理由なんてない。
神に誓ってもいい。俺たちは最後の最後まで努力をした。
生きて帰って伝えれればいいんだろうけど、後はこの日記と我々の死体が、物語を伝えるだろう。

「そういう悲劇的な話が好きなの?」
「悲劇的な話が好きなわけじゃないよ。そりゃ、歴史とか伝記とかは好きだけど」

夏実はじっと僕を見ている。僕は本を広げたまま続ける。

「小さいころ、冒険家になりたかったんだ」
「冒険家?」
「そう、自分の住んでる街の広さを山の上ぐらいから見て実感して、でも市はもっと広くて、県は、国は、世界は。きっとどこかに、誰も目にしたことがない、何かすごい物があるんじゃないかって、無邪気に思ってた」
「ステキな夢じゃない」

僕は肩をすくめる。

「でもね、こんな風にも思い始めた。世界の殆どは開拓されていて、たくさんの本や絵や音楽があって、歴史を振り返っても、戦争があって、学生運動があって、テロがあって。僕なんかが見て来て語れるような物事は、もう何一つ残ってないんじゃないかって。誰も手を触れたことがないような場所なんて、それこそ自分自身ぐらいじゃないかって」
「私もそんな風に考えた事あるよ」

そう言って夏実は微笑む。

「一時期さ、あなたの深層心理みたいな本にハマってたんだ。片っ端から読んでみて、ああ、これはこういう事なんだ。みたいに、どんどん自分に当てはめてみてさ」
「当たってた?」
「それなりには。でもね、考えてみてよ。ああいう本ってさ、一つの設問で何千っていう選択肢があるわけでもないじゃない。それがそれなりに当たるって事は、誰も触れたことがないような自分自身なんてものはどこにも無くて、多少のカテゴライズはあっても、みんな同じようなもんなんだろうな。って思ったら、冷めちゃった」

そして、眉をしかめる。

「きっと、それはスーパーで売ってるような、どこにでもある玉ねぎの皮を、一枚一枚剥いていくようなものだったのよ。時々、痛いところを突かれて涙が出たりするけど、結局その中には何もないの。とにかく、あの時、私は深層心理なんて探るべきじゃなかったの」

僕は本を閉じる。
パタンという音が響く。

夏実の言うとおりだ。そこには、何もない。

エレベーターの中で待っていたなぎさは、僕の顔を見ると少し笑った。

「一つは嘘を本当にしたんだね、お兄さん」

そうだね――と、僕は答える。そして、扉が閉じる。

「それで、お兄さんはわざわざ、お店まで何をしに来たの?」

僕のジャケットをハンガーにかけながら、なぎさは言う。

「君を抱きに来た」
「そりゃまた、随分とストレートな言い方じゃない」
「君の人生訓を借りるなら、僕という粒胡椒を思いっきり割らない限り、どこへも行けないような気がするんだ」
「それが、私を抱くっていうこと?」
「そう。君というハンマーで」
「ふぅん」

少しばかり肯定のニュアンスを込めた声色を出す。なぎさは僕の隣に腰を下ろす。

「お店でヤってる時ってさ、女の子たちがどんな事を考えてるか知ってる?」
「知るわけないだろ」
「簡単な話よ。はい、ショートタイム入りました、一万円。はい、ミドルタイム入りました、一万五千円。ベルトコンベアで流れてきたチンコを順番にマンコに入れて、預金通帳の数字が上がっていくところを考えてるの」

そう言って、なぎさは僕の顔を覗き込むように見上げる。

「キミは、私を、抱きたいのね?」

言葉を区切るようになぎさは言う。

「そうだよ。そのためにここに来た」
「でも、ダメ。ヤらせてあげない」

面食らった僕を見て、なぎさは悪戯っぽく笑う。そして、小さなメモ帳とペンを取り出し、僕に渡す。

「それは、今、ここでじゃない。そんな風に思わない?そこに住所書いておいて。仕事の後で行くからさ」

そう言ってなぎさは大きく伸びをし、服を着たままベットに転がる。

「さて、時間までお話でもしましょうか。話したいことが、たくさんあるんじゃない?」

そして僕は、たくさんの話をする。

全ての夢は悪夢である。そう言い切ったのは誰だったろうか。確かに、どんないい夢を見たところで、何も現実には残らないという点から、それらは全て悪夢の一つだとも言える。どうしようもない程の空腹時に見つけた、御馳走の絵のように。それでも、と僕は思う。

悪夢というのは、それらとは根本的に違う、立ち向かう事すらできない、もっと理不尽で荒々しい暴力的な何かだと。

深い森を抜けた先に湖が広がっている。静かな風が吹き、水面が揺れる。ショートボブの髪を揺らしながら、カノジョはこちらに背を向けたまま、湖をじっと見つめている。僕は少し離れたところから、その光景を眺めている。

「三半規管を狂わせる刑罰って知ってる?」

振り返ることなく、カノジョが言う。

「知らないな」

僕は答える。

「三半規管を狂わせた人たちをね、暗い海の沖合いに、手足を軽く縛って放り込むの。沈みながらもがいているうちに、手足は自由になって海面に出ようとするんだけど、真っ暗闇の中で感覚も狂っているから、どっちが上でどっちが下だかわからないのね。運のいい人は海面に出れるけど、運の悪い人は逆にどんどん深く潜っていってしまう。そういう刑罰」
「酷い話だ」
「そうね。でも、知ってると思うけど、大概のことって、酷いものじゃないかしら」

カノジョはこう言っているのだ。お前は水面を目指して、もっともっと深い場所へ向かっているんじゃないか。と。

「私はその話を聞いた時に思ったの。人間の身体は浮くように出来てるんだから、そんな時は泳ごうとしちゃいけないんじゃないかって。無理に泳ごうとしないで全身を広げて、浮力に流されるようにして、水面を目指すべきじゃないのかって」
「そういう考え方もあるんだろうね」

僕は答える。

「でも、それで助からなかった時、きっと後悔すると思う。もちろん、どんな方法を取ったところで、きっと後悔する事には変わりはないんだ。それでも、より強く後悔すると思う」

カノジョは静かに笑う。

「随分と変わったのね」
「そうかな」

僕は自分の手を何度か握り開く。指先のはっきりとした感覚を確認する。

「まぁ、変わったのかもしれないね」

長い沈黙が流れる。僕は言う。

「ねぇ、君の名前を教えて欲しい」

カノジョはまた、静かに笑う。肩が僅かに揺れる。

「私からも質問していい?」
「どうぞ」
「アナタは誰?」

デジタル時計は4時57分を表示している。隣から小さな寝息が聞こえる。布団に潜り込むようにしている、ショートボブの後ろ髪が見える。僕は起こさないように布団から抜け出し、ジーンズを履きシャツを着る。そして、ゆっくりと窓を開けて庭に出る。外は幾つかの雲と、透き通った空が広がっている。煙草に火を着けながら、辺りを見回す。

どこからが夢だ?

深く吸い込んだ煙を吐く。

さて、思い出そう。僕は声に出さずに考える。初めての習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。止め、跳ね、払い、丁寧に。一昨日の自分から、昨日の自分へ。昨日の自分から今日の自分へ。例え何かが失われてしまったとしても、それでも、そこにあったはずの熱は、何かを変えていくはずだ。

硫化アリルが消えていくように。
硫化プロピルがトリスルフィドに、セパエンへと変わるように。

昨日までの言葉を綴り、次に続けるのは、新しい言葉だ。
強い香りと刺激の粒胡椒を仕上げるための硬い殻を、強くためらわず砕ききる言葉を。
今日の僕から明日の僕へ。明日の僕から明後日の僕へ。

それが始まりだ。

流れていく時間とともに、明け方の世界は色を取り戻す。背後から窓の開く音が聞こえる。
僕はその言葉を口にするために、振り返る。


以下の書籍を引用しています。

詩集「春と修羅」著者・宮沢 賢治

以下の書籍を参考としています。

お松つぁまの池 ~魚沼の伝説~ 文・桑原春雄/絵・外山康雄
弥三郎ばさ ~魚沼の伝説~ 文・桑原春雄/絵・外山康雄
世界最悪の旅. 悲運のスコット南極探検隊.  訳・加納 一郎 / 著者・A・チェリー=ガラード