思い出すという行為は、写経に似ている。一昨日の自分から、昨日の自分へ。昨日の自分から今日の自分へ。同じ言葉を何度も写しながら、経を渡していく。そこに書かれている言葉は同じでもあるし、別物でもある。止め、跳ね、払いといった文字の要素が少しずつ変わっていく。
ある文字は力強く、ある文字は流れるように。
一番最初にあった荒々しさのようなものは、どこかの段階で失われるかもしれないし、最初とは別の重さを生むかもしれない。時間が経てばあらゆるものが変化していく。思い出した出来事は、正しくもあり間違いでもあるという矛盾を内包している。
朝の5時に僕は庭で空を見上げる。幾つかの雲と、透き通った空が広がっている。煙草に火を着けながら、辺りを見回す。明け方の世界はどこか彩度が失われ、現実感のない夢のようだ。深く吸い込んだ煙を吐く。
さて、思い出そう。僕は声に出さずに考える。初めての習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。それが始まりだ。
彼女は唐突にそう言った。
復唱した僕の言葉を彼女は訂正する。
僕は具体的にそんな湖を想像してみる。誰も立ち寄らないような深い森の向こうに広がる湖を。透き通るような冷たい水を。そこに浮かぶ彼女を――
彼女は小さく笑う。
彼女は首を振る。
彼女は一呼吸おいて続ける。
僕は彼女の言う感覚をイメージしてみる。
僕は少し驚いて言う。君はずっと夢の話をしていたんじゃないか。
ふぅ。と小さなため息をつく。もしここが湖の底ならば、見えないだけで、この小さなため息も泡となって上へと昇っているのだろうか?
そう言って彼女は微笑む。
彼女が僕の前から消えたのは、それから少しばかりたった後の事だった。彼女の言葉を借りるなら、湖の底から戻ったという事なのだろう。
もちろん、彼女はある日唐突に僕の前に空から降ってきたわけではない。小中学校と新潟で僕と同じ学区で過ごし、お互いに別の高校に進学した後に、親の仕事の都合か何かで東京の方に引っ越し、その後に僕が大学と就職のためにやってきた神戸で再会をした。別に幻でも夢でもなく、僕の人生に真っ当な意味合いで関わってきた関係の子だった。
彼女と再会したのはセンター街にあるジュンク堂書店の中だった。立ち読みをしている僕を見つけた彼女が声をかけてきたのだ。
彼女はそう言って笑った。
僕たちは近くのハーブス神戸でお茶を飲みながら、たわいもない話をして連絡先を交換した。今日はこの後予定があるから、また今度ゆっくり話しましょう。といった具合に。
そう言って、彼女は駅の方に消えていった。
二、三週間に一度ぐらいの間隔で、僕と彼女は会ってお茶を飲んだり食事をしたりした。交わす会話は、本当に些細な事ばかりだったと思う。それでも、何かしらの爪痕のようなものを、彼女は僕に残していったのだろう。ある時、彼女は僕の家が羨ましかったという話をした。
僕は笑いながら言う。
彼女は続ける。
地に足がついた生活。その言葉を繰り返そうかと一瞬考えて、僕はその言葉をしまい込んだ。
同僚は喫煙所で煙草を吹かしながらそう言った。
僕は半分ほど呆れながら答える。残りの半分は、こいつに相談した自分自身への責めだ。仕事は出来る同僚ではあったが、大抵のことは色恋沙汰に持っていく人間だ。そのことを思い出すのが、ほんの少しばかり遅かった。
同僚は、それみた事かという表情を浮かべる。
深い溜め息を吐きながら、僕は喫煙所を後にした。
帰宅途中、携帯に同僚からメールが届く。本文無しにURLだけが書かれたメールで、リンクをクリックしてみると、画面に福原のソープランドが表示される。
あの馬鹿、何考えてんだ。そう思わず声に出しそうになったと同時に、僕は自分の目を疑う。そこには下着姿の彼女が映っていた。
携帯をポケットに突っ込みながら、僕はそう呟く。
帰宅後、同僚が送りつけてきたサイトをもう一度確認する。そこに載っているなぎさという源氏名の女性は、どこからどう見ても彼女だった。確かに僕は彼女がどこでどんな仕事をしているのかは知らない。彼女がそこで働いているというのは、どうにもイメージが出来なかった。さて、考えてみよう。知り合いかもしれない人物が性風俗で働いていて、その人にもう一度会いたい場合、どうするのが正解なのか。
店の従業員出入り口の近くで張り込む。いや、そんな事をすれば、従業員に捕まえられても不思議はない。では、最寄駅で張り込む。僕は首を振る。どの駅で待つつもりだ。
同僚の下卑た顔が脳裏に浮かび、その日一番大きなため息を吐く。結局選択肢なんて無いのだ。
その日、僕は一時間ほど携帯電話をただ睨んでいた。
予約した日に有休を取り、電車で神戸駅に向かい、そこから湊川駅の方向へ歩く。福原町の通りまで来ると、「路上での呼び込みは条例で禁止されています」という看板が見えた。それなら少しぐらいはマシだろうと、店を探し出してから1分もかからないうちに、僕は自分の考えが甘かった事を理解した。
いろいろ考えるものだと思う。店の敷地から一歩たりとも出ないのであれば、そこは路上では無いのだ。着いてきたりしないだけマシといえばマシだけど、それでも一歩進む事に視線が向けられるのは気持ちがいいものではなかった。
予約した店に入ると、一瞬の間も置かず、ボーイが話しかけてくる。
僕は予約の時に使った偽名を伝える。
僕はプレイシートと書かれた紙と番号札を渡され、待合室に通される。そこには8人ほどの男がソファに座りながら、思い思いの方法で時間を潰していた。空いてるソファに座り、煙草に火を着ける。平日の昼間から何でこんなに人がいるんだか。
プレイシートの内容をざっと見る。受けですか、攻めですか、何回戦希望しますか、と事務的な質問が並ぶ。ボーイに、これ全部記入しないとダメなの?と聞きたい思いに駆られたが、待合室には客しかいないみたいだった。ため息を吐きながら、全ての質問にお任せを選ぶ。
煙草の煙を頭上に吐きながら、ざっと待合室を見回す。1つのビルの中で、これだけの人が性行為をする目的で集まっているというのは、どうにも奇妙な感覚だった。もっとも、向こうから見たら僕も同じように思われてるのだろう。
やがて僕の番号が呼ばれる。
ボーイはそう言って僕の口の中にミントスプレーを吹きつける。ベルトコンベアで運ばれてるみたいだな。と思う。非常にシステマチックで事務的だ。
エレベーターの中で待っていた子は、僕の探していた彼女とは別人だった。とてもよく似ているけど別人だという事は一目でわかった。閉じていくエレベーターの扉の向こうからボーイの「お時間までごゆっくりお楽しみくださいませ」という声が聞こえた。
僕のジャケットをハンガーにかけながら、なぎさは言う。
否定とも肯定ともとれるニュアンスで呟いた後、なぎさは僕の隣に腰を下ろし、僕の顔を覗き込むように見上げる。
少しばかり否定のニュアンスを込めた声色を出す。
僕は頷く。確かにその通りだ。
僕の言葉を遮るように、強い口調でなぎさは言う。
なぎさはまた、僕の言葉に被せる。
一呼吸置いて、なぎさは続ける。
なぎさはそう言って、自分のワンピースを脱ぐ。
「なんだ、ちゃんと勃つんじゃない」と、なぎさは言う。
「勃たないなんて言ってない」と、僕は答える。
ベッドに寝転んだまま、なぎさは言う。
沈黙の中、時間を告げるアラーム音が鳴り響く。なぎさは起き上がりながら、僕の胸を強めにポンと叩く。不意を突かれて、むせ返りそうになる僕を見下ろしながら言う。
なぎさは僕の言葉に耳をかさず、顔を近づけてじっと目を見る。思わず目をそらしそうになりながらも、僕はなぎさの目を見返す。やがて、顔を遠ざけながら、なぎさは言った。
そう言って、なぎさは笑う。
エレベータの中で、「また指名してね」と言ったなぎさに対して、僕は「わかった」と答える。扉が開き一歩外に出るとボーイ達の「お客様、お帰りです。ありがとうございました」という大声にかき消される程度の小さな声で、なぎさは囁いた。
一瞬振り返った僕の目に映ったのは、閉じられていくエレベータの扉だけだった。
外に出て見上げた空は薄曇りで、息苦しさとじんわりとした重さが、身体にまとわりつくみたいだった。「さて」と僕は小声でつぶやく。
さてさてさて……
頭の中で同じ言葉が反響し続けた。
携帯電話の液晶に表示されたのは見覚えのない番号だった。僕は不審に思いながらも、応答ボタンを押す。
電話の向こうから、なぎさの小さなため息が聞こえる。
いや——と僕は否定する。
当たり前だ。と僕は思う。そんな頻繁にあってたまるか。
短い沈黙の後、なぎさは言う。
何で僕はその程度のことに気づかなかったのだろう。
そう言って、なぎさは一方的に電話を切った。
押し入れの奥に押し込められた古い段ボール箱を探した。確か大学に進学し、神戸に出てきた際に、無理やり持って行かされた卒業アルバムがあったはずだった。なぜ無理やり持たされたのか、当時はわからなかったが、父も母も僕がもう戻ってこない事に感づいていたに違いない。多分。
卒業アルバムには全員の卒業当時の住所が載っていたはずだ。その中の誰でもいい。地元に残っていそうな奴の見つけて、連絡を取る。彼女の仲が良かった友達の名前を聞く。今度はそちらに連絡を取る。手順としては間違っていないはずだ。
違和感——
埋もれていた卒業アルバムを取り出す。最初に連絡を取る相手を見つけようと、ページを捲る。
違和感——止めが、流れに。払いが、跳ねに。
何かに心臓を直接わしづかみにされたまま、後頭部を思いっきり金槌で叩かれたような衝撃とともに、僕は卒業アルバムを閉じた。
落ち着こう——そう自分に言い聞かせて、煙草を取り出す。咥えて火を着け、深く吸う。チリチリという葉の燃える音を聞きながら、煙を吐き出す。フィルターを強く噛む。
僕はもう一度、中学時代の卒業アルバムを開く。当時のクラスメイト達の顔が並ぶ。二段目の右から三番目、高橋夏実は写真は苦手といった感じに、はにかんだような笑顔で写っている。
思い出せ!僕は声に出さずに叫ぶ。止め、跳ね、払い、習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。
三宮のセンター街にあるジュンク堂。僕はあの日、北欧デザインの家具の本を読んでいた。そこで、不意に後ろから名前を呼ばれて驚く。怪訝そうな顔で振り返る。ベージュ色をしたジャケットコート姿のショートボブの彼女が笑顔を浮かべる。
彼女は、誰だ?
三ノ宮駅東口近くのニシムラコーヒーで、僕と向かい合わせに座ったなぎさは、考え込んだ表情で空のコーヒーカップを見つめていた。
なぎさは呆れたような声で言う。
コツ、コツ、コツと、左手の人差し指でテーブルを叩きながらなぎさは考えこむ。その音は僕の頭のどこかにある扉を、規則正しくノックしているように感じる。
視線を僕に向けて、なぎさは続ける。
そう言って、僕は小さくため息を吐く。うつむき気味に視線を逸し、続ける。
そう言って、なぎさは続ける。
僕は顔を上げる。
僕がそう言うと、なぎさは静かに首を振った。
そう言って、なぎさは立ち上がる。
そう言って、なぎさは駅の方に消えていった。その後ろ姿は、僕の記憶の中の高橋ナツメにそっくりだった。
それから二週間ばかり、僕は可能な限りややこしい事は考えずに普通に過ごすことを心がけた。早く起き、早く眠り、きちんと食べ、掃除や洗濯をした。多分、そうしている間にも、分断された意識の向こう側で、刻々と考えごとは続いていたのだろう。
その日は、夕食の付け合わせにサラダを作っていた。冷蔵庫でよく冷えたトマトを薄くスライスする。玉ねぎと青じそをみじん切りにして、その上に散らしてドレッシングをかける。簡単なサラダだ。
台所で僕の肘が当たり、出来上がったサラダは皿が割れる音とともに床に散乱した。床に広がった赤いトマトと白い玉ねぎと透明なガラスの破片を見下ろしながら、肩を落とす。夜に一人、床に散らばった食べ物を片付ける事は、世の中にたくさんある惨めな事のランキングの中でも、かなり上位に来るだろう。
吐き捨てるように、実際に声にする。多分、僕にはきっかけが必要だったのだ。たとえそれが、もう嫌だ、ここを放り出してどこかに消えてしまいたい。そんな後ろ向きな理由であったとしても。
週末、新神戸駅から東京駅に向かい、そこから上越新幹線で浦佐駅へと向かう。駅で降りる人はそんなに多くはない。新神戸と対して変わらない。大抵の人は、手前かもっと先へと進むのだ。ホテルのチェックイン時刻には早かったので、西口に周り普光寺まで歩いた。昔からある有名なお寺だけど、住んでいた頃には興味も持たず足を運んだりしない。そんなものだろう。多分。
拝観料を払うまでの興味は持てなかったので、建物の見える場所で駅に置いてあった観光案内に書かれていた内容を読む。坂上田村麻呂が開いた毘沙門堂の管理するために建てられた寺らしい。征夷大将軍・坂上田村麻呂。
昔、何かで読んだ気がする。蝦夷との戦争。アルテイとモレ。アルテイは蝦夷の英雄だったらしい。でも、その英雄譚は完全に失われている。敗者の歴史は殆ど残らないし、語られる事もないけど、アルテイは田村麻呂伝説の悪路王とされているらしい。宮沢賢治も詩にしていた。
Ho!Ho!Ho!
むかし達谷の悪路王
まつくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面このこけおどし
太刀を浴びてはいつぷかぷ
夜風の底の蜘蛛をどり
胃袋はいてぎつたぎた
その詩は、とても宮沢賢治らしく終わる。
消えてあとない天のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
アルテイと悪路王、悪路王の青い仮面姿、伝説に出てくる鬼たち。別々の姿のひとつのいのち。
僕は声に出して時計を見る。そろそろチェックインの時間だった。
チェックインの決まりきった手続きを終え、シングルルームのベッドで横になる。少し距離があるにせよ、ここも僕が生まれ育った魚沼の街だ。さて、これからどうする。僕は考える。高橋ナツメは、魚沼のことを何か話していただろうか?僕は思い出す。確かあれば、東門通りを一緒に歩いていた時の事だ。
ナツメは少しの間、考えこむように空を見上げ、答える。
ふぅ。とナツメは白い息を吐く。
そう言って、ナツメは僕を見る。
魚沼の昔話といえば、「お松つぁまの池」と「弥三郎ばさ」辺りだろう。確か、お松の池という池が、六日町駅の方にあったはずだ。僕は早速ホテルを出て、六日町に向かい、そして軽く後悔した。
お松の池は、カタクリとどんぐりの道という、トレッキングコースの一部になっていた。それも往復九キロメートルという道のりだ。もちろん、タクシーで行くこともできるものの、コースの途中途中に民謡の説明パネルを配置してくれているらしい。ありがたくて涙が出てくる。
僕はため息を吐いて進む。
お松は大抵の悲劇の主人公同様に、気立てのよい優しい働き者の娘だった。
長く厳しい北国の冬。機織りは女の仕事だった。
きちんとした立派な反物を仕上げて、初めて一人前の嫁として認められた。
誰に?多分、みんなに。
伝えるのは、姑の役目だった。
一人前の嫁にしてやりたい。お松はいい嫁なんだから。きっと出来るから。
日々の厳しい指導が続く。
答えるのは、嫁の役目だった。
なぜ上達しないのだろう。あんなに一生懸命なおっかさまに申し訳ないじゃないか。
何年も何年も続く努力。
申し訳ない。
申し訳ない。
申し訳ない。
お松は笑わない。そして祈る。
命を、魂を、少しずつ削り、糸と合わせて織り込むように。
その一枚は、大変な高値で売れる。姑は駆け足で、家へと向かう。
ガラリと開けた引き戸の向こうには誰もいない。
最後に吐き出した吐息が、あぶくとなって水面に浮かぶ。
姑は膝から崩れ落ち、涙を零す。
そんな話だ。
この話の哀しさは、そこに善意と祈りしか存在しないところにあると思う。
目の前に大きな池が広がる。まだ花を咲かせていない桜の木が並ぶ。時期が時期であれば、きっと綺麗な場所なのだろう。池の中央には橋があり、社がある。お松さんが祀られているのだろうか?そこまで足を伸ばそうとして、躊躇して首を振る。きっと、これ以上祈りを重ねるべきではないのだろう。
僕は来た道をまた引き返す。
翌日、電車に乗り、地元の越後堀之内まで向かう。どうせなら、自分が住んでいた頃によく足を運んだ図書館に行こうと思ったのだ。駅を降りて、ついでに高橋夏実が昔住んでいた家の前まで足を伸ばす。当たり前のように、そこには別の表札が掲げられていた。まぁ、いいさ。何かを期待したわけじゃない。
堀之内小学校を眺め、魚野川に出る。川沿いを歩きながら、堀之内中学校へ。長く地元を離れるというのは、こういう事なのかもしれない。通い慣れたはずの道なのに、今は違和感だけが残る。
中学校から駅の方向へ戻り、堀之内公民館図書室にたどり着く。元々、大きな施設でもない。広くない閲覧コーナーにも、二人ほどの人がいるだけだった。
僕は弥三郎ばさを手に取り、読み始める。
昔々、弥三郎という猟師が妻と息子の三人で仲良く暮らしていた。
でもある日、雪山に猟に出かけた弥三郎は、そのまま帰ってこなかった。
残された妻は必死に息子を育てる。やがて成長した息子は父と同じ漁師になり、嫁を取り、子が産まれる。しかし、息子もまた父親と同じように雪山から帰ってこなくなる。そして、妻も悲しみのあまり後を追う。
残されたのは、ババと乳飲み子だけ。
どうして、それだけで暮らしていけよう?
ババは孫を抱き、村中を周る。
でもやがて、誰ともなく言い出す。
飲むものも飲まず。
食うものも食わず。
薄い布団に包まりながら時が過ぎる。
空腹に泣く孫の声をいつしか止まり、冷たい躯を抱きかかえながらババは言う。
力を込めた腕に揺られ、孫の躯がババの口元に触れる。
何かが壊れ、ババは孫の首筋に喰らいつき、その肉を噛み千切る。
吹雪の晩は弥三郎ばさが来るぞ♪
悪ぃ子さらいに弥三郎ばさが来るぞ♪
中学だか高校だか、文化祭の出展で弥三郎ばさの展示を見たことがある。細部は異なれど、日本各地に同じ話があるという発表だ。善意に満ちた人たちが、一瞬で変わるという事実は、それこそ何処に行っても変わらないという事なのだろう。多分、ナツメに何かしらのトラウマを残したのはこの話なのだろう。確かに受け取り方次第では、キツすぎる話だ。
グリム童話が改変されたように、この話も複数の終わりがあるらしい。例えば、その後に偉いお坊さんが訪れて、ババを説き伏せ鬼から菩薩に変わるような展開だ。でも、と僕は思う。
それは救いか?
本を閉じ、脱力するように天井を見上げる。たしか、ここで高橋夏実と本の話をした事もあったはずだ。書庫に行き、その時の本を取り出し、ページを捲る。
向かいの席に座りながら、夏実が僕に言う。
僕は言う。
ロバート・スコットの日記にはこう書かれていた。
リスクが有る事なんて承知だったさ。文句をつける理由なんてない。
神に誓ってもいい。俺たちは最後の最後まで努力をした。
生きて帰って伝えれればいいんだろうけど、後はこの日記と我々の死体が、物語を伝えるだろう。
夏実はじっと僕を見ている。僕は本を広げたまま続ける。
僕は肩をすくめる。
そう言って夏実は微笑む。
そして、眉をしかめる。
僕は本を閉じる。
パタンという音が響く。
夏実の言うとおりだ。そこには、何もない。
エレベーターの中で待っていたなぎさは、僕の顔を見ると少し笑った。
そうだね――と、僕は答える。そして、扉が閉じる。
僕のジャケットをハンガーにかけながら、なぎさは言う。
少しばかり肯定のニュアンスを込めた声色を出す。なぎさは僕の隣に腰を下ろす。
そう言って、なぎさは僕の顔を覗き込むように見上げる。
言葉を区切るようになぎさは言う。
面食らった僕を見て、なぎさは悪戯っぽく笑う。そして、小さなメモ帳とペンを取り出し、僕に渡す。
そう言ってなぎさは大きく伸びをし、服を着たままベットに転がる。
そして僕は、たくさんの話をする。
全ての夢は悪夢である。そう言い切ったのは誰だったろうか。確かに、どんないい夢を見たところで、何も現実には残らないという点から、それらは全て悪夢の一つだとも言える。どうしようもない程の空腹時に見つけた、御馳走の絵のように。それでも、と僕は思う。
悪夢というのは、それらとは根本的に違う、立ち向かう事すらできない、もっと理不尽で荒々しい暴力的な何かだと。
深い森を抜けた先に湖が広がっている。静かな風が吹き、水面が揺れる。ショートボブの髪を揺らしながら、カノジョはこちらに背を向けたまま、湖をじっと見つめている。僕は少し離れたところから、その光景を眺めている。
振り返ることなく、カノジョが言う。
僕は答える。
カノジョはこう言っているのだ。お前は水面を目指して、もっともっと深い場所へ向かっているんじゃないか。と。
僕は答える。
カノジョは静かに笑う。
僕は自分の手を何度か握り開く。指先のはっきりとした感覚を確認する。
長い沈黙が流れる。僕は言う。
カノジョはまた、静かに笑う。肩が僅かに揺れる。
デジタル時計は4時57分を表示している。隣から小さな寝息が聞こえる。布団に潜り込むようにしている、ショートボブの後ろ髪が見える。僕は起こさないように布団から抜け出し、ジーンズを履きシャツを着る。そして、ゆっくりと窓を開けて庭に出る。外は幾つかの雲と、透き通った空が広がっている。煙草に火を着けながら、辺りを見回す。
どこからが夢だ?
深く吸い込んだ煙を吐く。
さて、思い出そう。僕は声に出さずに考える。初めての習字の授業の時のように、お手本に合わせて出来るだけ正確に、くっきりと。止め、跳ね、払い、丁寧に。一昨日の自分から、昨日の自分へ。昨日の自分から今日の自分へ。例え何かが失われてしまったとしても、それでも、そこにあったはずの熱は、何かを変えていくはずだ。
硫化アリルが消えていくように。
硫化プロピルがトリスルフィドに、セパエンへと変わるように。
昨日までの言葉を綴り、次に続けるのは、新しい言葉だ。
強い香りと刺激の粒胡椒を仕上げるための硬い殻を、強くためらわず砕ききる言葉を。
今日の僕から明日の僕へ。明日の僕から明後日の僕へ。
それが始まりだ。
流れていく時間とともに、明け方の世界は色を取り戻す。背後から窓の開く音が聞こえる。
僕はその言葉を口にするために、振り返る。
以下の書籍を引用しています。
詩集「春と修羅」著者・宮沢 賢治
以下の書籍を参考としています。
お松つぁまの池 ~魚沼の伝説~ 文・桑原春雄/絵・外山康雄
弥三郎ばさ ~魚沼の伝説~ 文・桑原春雄/絵・外山康雄
世界最悪の旅. 悲運のスコット南極探検隊. 訳・加納 一郎 / 著者・A・チェリー=ガラード