Port Flip ポート・フリップ

- Port Flip -
 

弟と彼女は、二人の時はいつも手を握っていた。僕が弟と同じぐらいの時なんて、同姓の友人の視線が気になったり、からかわれたりするのが嫌で、それが例え幼なじみだったとしても、同い年の女の子と手をつないで歩く事なんて考えもしなかった。たしか、小学校の入学直後ぐらいだったと思う。集団登下校とかで、上級生の女の子に手を引かれた時でさえ、随分とばつの悪い思いをした事を覚えている。ただ単純に、僕に同年齢の幼なじみがいないから、そう思うだけかもしれない。

両親なんかは微笑ましく思っているようで、いつも仲良く遊ぶ二人に大きくなったら結婚するのか?なんて事を聞いていて、返事はもちろん「うん」だったらしい。僕が学校から帰ってくると、彼女の母親がよく家に遊びに来ていて、どうしましょうかねぇ、おほほ。なんて具合に笑っていた。僕の母親と彼女の母親は、中学からの親友らしく今も仲がいいのだ。親友同士でお互いの子供が結婚して、家族になるのは嬉しいものなんだろうか?

彼女は弟の事が何よりも大事という感じだったけど、だからといって僕に対して邪険にするわけでも無かった。二人がリビングでTVゲームをしている時なんかでも、僕の事を見つけると率先して声をかけてくるような子だった。

「お兄さんも一緒にやりますか?」
「いや、いいよ。宿題でもしてるから、二人で遊んでな」

彼女はいつ頃からか、僕の事をお兄さんと呼ぶようになっていた。最初の頃に感じていたむずがゆい気持ちも次第に薄れていき、僕も次第に二人がその内結婚し、僕もずっとお兄さんと呼ばれるんだろうと思っていた。二人が10歳になる頃までは。

夏休みに入って間もない頃の蒸し暑い月曜日だった。僕は留守番を頼まれていて、クーラーの効いたリビングでソファーに寝そべりながら、弟がいつものようにTVゲームで遊んでるのを眺めていた。よくも飽きないものだと思いながら。

「ずっとゲームばっかしてると、母さんに怒られるぞ」
「まぁ、こんなチャンス滅多にないしさ」

弟は画面から目を見つめた答える。

「兄ちゃんも一緒にやる?」
「お前、負けたら本気でキレるからやめとく」

何度も読みなおして飽きてきた漫画雑誌をパラパラめくりながら僕は思い出す。月曜日だったらジャンプの発売日だよな。立ち上がって、軽く伸びをしながら言う。

「コンビニ行こうか」
「うーん、今キリが悪い」
「お前な、母さんいたら確実に電源切られるぞ、その台詞」

弟は苦笑いを浮かべる。

「俺は留守番しとくからさ。兄ちゃん行っておいでよ」
「わかった。別にお前の分は何も買ってこないけどな」
「はいはい」

画面を見つめたまま、片手を振る弟を横目に、僕はコンビニへと向かう。玄関から外に出ると、むわっとした熱気が体にまとわりつく。でもまだマシな方だ。もう暫くすると、蝉の声が切れ間無く続いて、もっと強く夏を感じる事になるんだろうと思う。

1kmほど離れた場所にあるセブンイレブンに行く途中に、自転車に乗ったクラスメートに遭遇する。たわいもない話をしながら、額に浮かぶ汗を拭う。アスファルトの上に陽炎が揺れていた。

「休みになってから、毎日プールに行ってるんだぜ。筋肉ついてきたと思わね?」
「いや、わかんねーし」
「脱いだら凄いんだよ。よかったら、一緒に行くか?」
「留守番頼まれてるんだよ。また今度な」
「それじゃ、しょうがないか。じゃあ、また今度な」

クラスメートと別れ、僕は空を見上げる。空はどこまでも澄んでいて、太陽は強く輝いていた。こんな日は確かに泳ぎたくもなるよな。誰にいうわけでもなく呟く。

コンビニで今週号のジャンプと、ガリガリ君を二つ買おうとして手を止める。どうせ弟の彼女が遊びに来たりするんだろう。そう思って三つにする。まぁ、来なければ来なかった時だ。冷蔵庫に入れたままにしておいたところで腐るものでもない。

レジで会計を済ませて店を出たところで、後ろ姿の彼女を見かけた。やっぱり正解だったな。と思いながら声をかける。

「やぁ」

彼女は振り返り、僕の姿を見つけるとはにかむように笑顔を見せた。

「こんにちは、お兄さん」
「こんにちは。もしかしなくても、家に来るところ?」
「はい」
「毎日毎日、よくも飽きないね」
「そうですね。飽きませんね」

僕は笑う。

「アイス買ったからさ、おやつに食べるといいよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ちょっとだけ急ごうか。こんなに暑いと、全部溶けちゃうし」

でも、そのアイスは溶けきってしまい、僕たちの口の中に入ることは無かった。

人間は忘れる事が出来る生き物であり、忘れるという事は素晴らしい能力の一つである。もし、我々の脳が忘却という機能を持たないのであれば、きっと我々は日常生活をおくることはできないだろう。いつだったか、TVで見た偉い学者か何かがそんな事を言っていた。その言葉をなぜか僕は今も覚えている。

だからというわけではないけど、僕はその日のことを断片的にしか覚えていない。あまりに断片的すぎて、どこかで目にした物語を勘違いして、自分の記憶とごっちゃにしてしまったんじゃないかと思う。でも、記憶がいくら曖昧なものだとしても、記録は正確で無慈悲だ。

その日、僕の弟は何者かにズタズタに切り裂かれて殺された。

第一発見者は僕と彼女という事になっている。僕と彼女は、僕の母親が戻ってくるまでの間、変わり果てた弟の前で、ずっと立ちすくんでいたらしい。らしい?僕は殺された弟の姿を全く思い出せない。はっきりと脳裏に浮かぶのは、つけっぱなしのTVに浮かんでいた、GAMEOVERの文字だけだ。

警察発表によると、物取りの形跡は全く発見できず、何者かはただ弟を殺して何処かへ立ち去ったらしい。動機不明、容疑者不詳。僕の周囲は嵐のように吹き荒れて、やがて新しい情報が出てこない日々が続くことによって、次第に沈静化していった。

多分、大抵の事件の第一発見者がそうであるように、僕は警察に根気強くみっちりと色んな事を聞かれた。そんなつもりは決してないのだろうけど、僕にとってそれは犯人に対する尋問のように聞こえた。もちろん、殺した犯人というわけではない。殺される原因を作った犯人として。

「じゃあ、出かけるときに特にこれといった事は無かったんだね(鍵だよ、鍵をかけて行かなかったのが悪いんじゃないか?)」
「あそこのセブンイレブンって事は、だいたい留守にしていた時間はこれぐらいかな?(友達とお喋りねぇ。弟一人ほったらかして心配はしなかったのかねぇ)」
「マンガ雑誌一冊を購入……と(そんなもん欲しがるからこんな事になったんだよ)」

時折、誰かが弟の事件のことに触れてしまい、気まずい表情を浮かべる。

「あ、わりぃ」
「いや、気にしなくていいよ」

僕は答える。

「本当に思い出せないんだ」

弟の事件から二年がたって、僕は高校を一年留年した。先生は申し訳無さそうな表情をうかべたまま、気の毒だとは思うけど、規則だからな。と僕にそう伝えた。

「中退しようとかは考えるんじゃないぞ。一年ぐらいどうとでも取り戻せるんだからな」

僕は黙って頷く。

留年については特に何とも思わなかったけど、僕はこの先のことについて悩んでいた。進学するべきか、そのまま働くべきか。進学するにしても、近くに留まるべきか遠くへいくべきか。答えは決められず、きっかけさえも見つからなかった。ただ、ここの空気は重すぎた。

転機が訪れたのは春、とてもよく晴れた土曜日の事だった。その日、僕を訪ねてきたのは、彼女だった。あの日以来、ずっと会う機会がない間に、僕は18に、彼女は12に、そして弟は10歳のままだった。

「キミに話があって来ました」

知っているはずの名前ではなく、お兄さんとでもなく、彼女は僕のことをキミと呼んだ。

彼女は長い時間をかけて、ゆっくりと話す。言葉がバラバラになって、他人はおろか、身内とも上手く喋れない事。ずっと学校に行けずに、家で本を何冊も読んで、独学でずっと勉強していた事。でも、いつまでもこのままではいられないという事。中学入学を機会に前に進もうと思った事。

「私の喋り方。変じゃないですか?」
「そんな事ないよ」

僕は言う。

「仮にどこかおかしかったとしても、思うとおりに喋ることのほうが大切な気がする」
「ありがとう」

彼女はぎこちなく微笑む。

「それで、お願いがあってきました」
「何だい?」
「私と友達になってください」

僕は驚いて彼女の顔を見つめる。彼女はじっと僕を見る。問いかけるべき言葉は無数にあるような気がした。でも、どの問いかけも、彼女のその目が答えのような気がした。彼女は彼女なりに、思い、悩み、答えを導き出してここに来たのだ。

「いいよ、友達になろう」

僕は答える。彼女を守ろう。突然の豪雨のように、強くそう思った。世界を守るヒーローのように、彼女と彼女の世界を守ろうと。僕はここに留まらなければならない。それは身勝手な贖罪意識のようなものかもしれない。でも、彼女に二度とこんな顔をさせてはいけないんだと。

どこかで物音が鳴る。窓の外に目を向けると、そこには見覚えのない黒猫がいた。

「猫だ」
「え?」

猫は僕のほうを見ながら、不吉な呻き声を上げ、どこかへ消えていった。

家から通えるぐらいの距離で、それなりの勉強をすれば入れそうな大学を僕は選ぶ。特に無理はせずに、自分のペースを取り戻すことを最優先にした。先は長いんだ。そう自分に言い聞かせる。平日は普通に学校に行き、ちゃんと授業を受ける。土曜日には月に2、3日のペースで彼女に会う。日曜日は休む。そんな日々を僕は繰り返し続けていた。

彼女に会うといっても、特に何かがあるわけでもなく。僕の家で取り留めもない会話をするだけだった。彼女はとてもゆっくりと、時間をかけて言葉を探しながら喋っていた。まるで日本語を覚え立ての外国人のように。

「ごめんね。イライラするでしょう?」
「大丈夫だよ」

僕は言う。

「気は長いほうなんだ」

あっという間に一年が過ぎ、僕は志望大学に滑り込む事ができた。だからといって、特に生活のペースが変わることはなく、今まで家で勉強していた時間の代わりに、喫茶店でアルバイトを始めたぐらいだった。あまりに流行っているような店ではなく、僕の父親ぐらいの年齢の店長は、いつも気難しい顔をしながら新聞を睨んでいた。

僕はいつものように、使われた形跡がほとんどないカップを磨きながら言う。

「お客さん、来ませんね」
「なぁに、いつものことさ」
「いつものことの方が、危なくないですか?」
「なんだ、お前、店の心配してくれてんのか?」

店長は新聞から目をそらし、僕の顔を見ながら笑った。

「前にも行ったと思うけど、うちは豆屋だからな。朝昼出荷配送の時点で、十分売り上げはたってるのさ。喫茶コーナーは、わしの趣味みたいなもんだ。お前さんは別に心配しなくていいんだよ。給料だってちゃんと払えるぞ。まぁ、高くはないけどな」
「別にそんな心配はしてないんですけどね」

僕もつられて笑う。

「ちょっと不思議に思っただけですよ。だったら、店を開けてれば開けてるほど、赤が出るじゃないですか。なんで店を開けてるのかなって」
「お前さんにはまだ解らんかもしれんがね、世の中には決まった時間に決まった場所に行けば、必ず何とかなるという事で生まれる価値ってもんがあるのさ。お前さんを雇っているのだって、わしに何か急用があっても、ちゃんと店を開けれるようになんだぞ。だから、シャキッとしてくれよ、シャキッと」
「してますよ」

店長は僕の知る大人の中では、飛び抜けていい加減な感じがする反面、なぜか信頼してもいいと思わせるタイプの人だった。だからかもしれない。ある日、ふとした事で僕は彼女のことをぽろっと漏らしてしまい、店長はそれに食いついてきた。

「その話、詳しく聞かせてみろよ」

彼女のことや弟のことを人に話すのは嫌だった。いつかの友達が浮かべた何とも言えない表情と、どこにもたどり着けない同情の言葉が、僕の神経をざわつかせるからだ。でも、その時は滅多にみない店長の真剣な顔つきに押されて、できる限り正直に今までの事を話した。店長は長い間、深刻な顔つきで考えた後、突然僕に向かって言った。

「よし、今から珈琲を淹れてみろ」
「え?今からですか」
「そうだよ。やってみろ」

僕は店長の見よう見まねで珈琲を淹れる。その間に、店長は自分でも珈琲を淹れ始めた。

「さぁ、飲み比べてみな」

僕は二杯の珈琲を交互に口に運ぶ。

「どっちが旨い?」
「そりゃ、店長の方のが旨いですよ」
「だろう」
「何なんですか、馬鹿にしてるんですか?」
「不思議だと思わないか?同じ水、同じ豆、同じ道具を使ってこれだけ味に違いが出るんだぜ」
「どうせ、僕は見よう見まねでやり方もちゃんと教わっていませんしね」
「そりゃそうだな」

店長は笑う。

「お前さんは正しい手順でやってたよ。でもな、それだけじゃダメなんだ。知識と経験がわしとお前さんじゃ違いすぎる。それは大きな差だよな」

僕は頷く。

「じゃあ、知識と経験って何だと思う?」
「どうすれば美味しくなるか知って、毎日訓練するとかですか?」
「それじゃ、合格点はやれないな」

店長は大きく伸びをしながら続ける。

「まず、お前さんはたくさんの珈琲を飲んで、旨い珈琲っていうのはどんなものかを知らなくちゃいけない。漠然とじゃなく明確に自分が作ろうとする旨い珈琲の姿を見つけなきゃいけない。それが一番最初の知識と経験さ。わしは珈琲をちょっと他の人より旨く作れるだけのおっさんだからな、専門外の事に偉そうに言うつもりはないよ。でもな、お前さんは正しさだけに縛られてるように思う」
「正しさ……ですか?」
「お前さんはさ、その子にどうなって欲しいんだ?」

僕は唇を噛み締める。

「傷つかない、傷つけない事を第一に考える。すでに深く傷ついた人に対して、そんな風に考えてしまう事は、間違っちゃいないし正しい判断だと思うよ。でも、お前さんらの年頃だったら、部屋に閉じこもっているよりも、傷つくような出来事が起きるとしても外に出て、たくさんの人や物事に触れることも大事だとわしなら思うがね」
「そうかもしれませんね」
「年を取ると難しい言い方になっていかんよなぁ。もっと簡単に言えばいいんだよな」

店長は誰に言うというわけでもなくつぶやきながら頭を掻く。

「友達なら、一緒に遊びに行ったりするもんさ」

その日は前日からの雨が朝になっても続いていた。傘を打つ雨音を聞きながら僕はつぶやく。

「やっぱり、別の日にすれば良かったかな」
「なんで?別に嫌いじゃないよ、雨」

彼女は僕を見上げながら言う。

「僕が嫌いなんだよ。雨の日に外に出るの」
「キミらしいね。っていうかさ、晴れてても外に出るの嫌いなんじゃないの?外に遊びに誘われるの、初めてだし」
「そこまで出不精じゃないよ」
「どうだかねぇ」

彼女は疑いの笑みを浮かべる。そんな彼女を見ながら、変に気を使いすぎていたのかもしれないな。と思った。考えてみれば、この一年、彼女は学校に通いクラスメイトと交流を続けてきたのだ。普通に笑えて、普通に話すこともできる。むしろ、同じ部屋の中で一年前の彼女の姿に捕らわれていたのは、僕の方かもしれない。

その日、僕たちは隣町の小さな美術館に向かっていた。彼女がそこに行ってみたいと言った時、明らかに僕の知り合いはいそうにない場所だったため少しほっとした。中学生の子と一緒に遊んでいるところを知り合いに見られたら、何を言われるかわかったもんじゃない。

美術館では通常展示の他に、期間展示でジャンクアートの展示が行われていた。ポスターを見ながら、不思議そうな顔で彼女が言う。

「ジャンクアート?」
「まぁ、鉄くずとかいろんなゴミを使って作った芸術らしいよ」
「へぇ、面白そうじゃん」

展示スペースにはナットやボルトを組み合わせて作ったようなフィギュアが並んでいた。

「なんか、SF映画の世界みたいだな」
「うーん」
「あれ?気に入らない?」
「気に入らないってわけじゃないけどさ。なんていうの、あんまりジャンクって感じじゃなくない?」
「まぁ、そう言われてみれば」

よくよく見てみれば、確かにそれはジャンクというよりも真新しい素材を組み合わせただけのようにも見えた。

「なんかこう、いかにもって感じがするんだよね……あっ、あれ凄くない?」

彼女が指を差した方向にはいくつかの絵が並んでいた。

「へぇ、ああいう絵が好きなの?」
「違うって、もっとよく見て」

僕は絵に近づいてみる。それは、ジャムの瓶やペットボトルのフタ、ビールの王冠、フィルムケースや服のボタンやペンのキャップといったものを組み合わせて作られた絵だった。

「すごいな。遠くから見たら普通の絵に見える」
「ね、すごいよね。あ、これとかパソコンのキーボードじゃない?」
「ほんとだ」

感心して思わずつぶやく。

「なんかさ、ほんとにゴミみたいなものでも、こんな風に集めたら何かが出来るって考えると、感慨深いものがあるよなぁ」
「感動したなら、キミも何か作ってみたら」

彼女は少し意地悪げに言う。

「やめとくよ」

僕は笑う。

美術館を出て、電車で戻る。雨が朝方より強くなっているみたいだ。電車の窓に激しく水滴がぶつかってる。帰る時は傘も役に立たないかもしれないな。と僕は思う。駅に到着して、別れる時に彼女が言った。

「結構楽しかったよ。またさ、どっか連れていってくれる?」
「いいよ。また行きたいところがあったら言ってくれたらいいよ」
「サンキュ。……あ」
「ん?」

僕は彼女の視線を追う。その先には、黄色い合羽を来たおばさんが、お揃いの色の合羽を着た柴犬を連れて散歩をしている。特に何ていうことのない光景だ。

「どうかしたの?」
「いや、可愛い顔した柴犬だなって思ってさ。でも、犬に合羽着せちゃうのって、何だかなぁって感じがするよね」
「まぁ、そうだな」
「そんだけ。それじゃ、またね」
「ああ、また」

駆け出す彼女を見送りながら僕は答える。そして、その内に何かしらの違和感が湧き上がる。もう一度、黄色い合羽のおばさんと犬を見る。何の変哲もない犬連れ。僕は小さくため息をつく。傘をさして歩き始めた時、どこかで雷が鳴る。その瞬間、僕は違和感の正体に気づく。

「可愛い顔した柴犬……」

僕は振り返り、もう一度合羽を着た犬を見る。雷と強くなっていく雨のせいか、おばさんと犬は駆け足で立ち去っていく。

彼女は犬が苦手じゃなかったか?

豪雨が僕の頭の中をかき乱していく。

古い記憶を辿る。まだあれは、彼女と弟が幼稚園の頃だったと思う。泣いている彼女のそばで困った顔をした弟が立っていた。僕は弟に問いかける。

「おい、お前が泣かせたんか?」
「違うよ、俺じゃないって!」

弟は言う。

「そこの角で犬に吠えられてさ」
「吠えられただけ?」
「昔、噛まれたみたいでさ。どんな子犬でも怖いんだって」

確かに弟はそう言っていた。そんな事でいちいち嘘なんてつかないはずだ。

僕はいつものように新聞に集中している店長に問いかける。

「店長、小さい頃に苦手だった生き物とかいます?」
「生き物?」
「はい。犬が怖くてたまらなかったとか」
「犬は飼ってたから、全く怖くなかったな」

店長は少し懐かしげな表情を浮かべる。

「そうだな。猫が怖かったな」
「猫?」
「そう、猫。まぁ、猫が怖かったっていうかね。死んだ婆さんの話が怖かったのかな」
「聞かせてくださいよ。面白そうじゃないですか」

僕は身を乗り出して言う。別に面白い話でもないんだけどな、と店長が笑って続ける。

「なんて言うのかな。婆さんが怖いことばかり言うわけだよ。例えば猫ってのはさ、人間の言葉が解るっていうんだよ。解るっていうのはあれな、愛情を込めて接すればペットに気持ちは伝わりますとかの話じゃなくて、もっとこう一語一句理解してるみたいな感じ」
「まぁ、長生きした猫は妖怪になるみたいな事、昔から言いますからねぇ」
「そうそう、猫又とかの話が混じってるんだろうな。よく言われたのは、猫と二人っきりの時に、猫に話しかけちゃいけない。猫の話しかけてきた言葉に返事しちゃいけない。って事だな。あまりに真剣な顔で言うからさ、怖くなって猫に近づかなくなったんだよ」
「今もですか?」
「まさか」

店長は大げさに笑う。

「大人になったら平気になる事はたくさんあるんだよ。なんなら、今から猫と二人で語り合いながら珈琲を飲んでもいいぐらいだ」

大げさな表情の店長を見て僕も笑う。

「でも、猫の返事に応えたら、何が起きるんですかね?」
「大変な事が起きるって言ってたな。まぁ、何が大変なのかはわからんけどな」

店長はまた笑う。多分、僕が余計なことを気にしすぎてるだけなのだろう。

「はぁ、憂鬱な時期になったよね」

彼女は僕の部屋に来るなりそう言った。

「憂鬱って何が?」
「テストだよ、テ、ス、ト」
「テスト期間なんてすぐ終わるだろ」
「はぁ、解ってないなぁ……」

呆れた顔で彼女は言う。

「期末試験ぐらい我慢できるけどさぁ。なんかこう、山ほど広告が入るわけよ。高校入試に向けて、この夏があなたの命運を分ける!みたいな広告がさ。プレッシャーかけすぎ」
「高校に入ったら入ったで、すぐに大学入試がって言われるよ」
「やなこと言うねぇ……いいよね、大学生はヒマそうで」
「まぁ、塾とかが無い分はヒマかもな」
「そう、それ、塾とか行きたくないわけよ」

そう言って、大きくため息をつく。

「なんかさ、テスト終わっても休みはありません。って感じで気が滅入るよね」
「塾行かなきゃいいだろ?」
「そういうわけにはいかないのが、学生の辛いところなわけさ」
「じゃあ、高校合格したら何か買ってやるよ。それを励みに頑張ろうぜ」
「随分と先の話じゃん。ちゃんと覚えててくれるんでしょうね」
「ちゃんと覚えとくよ」
「じゃあ、それを励みに頑張りますかね」
「なんだったら、今から勉強見てやろうか?」
「それは、パス。遊ぶときには遊ぶの」
「はいはい」

僕は笑う。笑いながら、もう弟の命日が近いのか。と思う。彼女にその事を伝えるべきなのかどうか、僕はまだ判らずにいる。

深夜、何気なく眺めていたテレビのバラエティ番組に、今人気の店にいる若いバーテンダーが出演していた。彼はプロらしく、美しい動きでシェーカーを振る動きを見せていた。出演者の一人が言う。

「上手にシェーカーを振るコツってあるんですか?」
「それはまず、何のためにシェイクするかを知ることです」

バーテンダーは、にこやかに答える。

「シェイクは、何のためにすると思いますか?」
「それはやっぱり、混ぜたり冷やしたりするためですよね?」
「それらもとても大事な要素です。でも、それだけであれば、ステアするだけで充分なはずです」
「格好いいからでしょ」

出演者一同が笑う。

「そうですね。でも、一番大切な事は、カクテルの中に空気を溶けこませる事にあります。中の氷が砕けて水っぽくならないようにする。全体に空気が行き渡るように大きく振る。そういった事に注意して振ることで、自然と美しい動きになるのです。それを知らずに、動きだけ真似をしても上手くいきません」

へぇ。といった感心の言葉が漏れる。バーテンダーは続ける。

「では、一緒に実演してみましょうか」
「どんなカクテルを作るんですか?」
「そうですねぇ……」

少し考えてから、バーテンダーは言う。

「皆さんもお仕事でお疲れでしょうし、ぐっすり眠れるように甘めのミッドナイト・カクテルなどがいいかもしれませんね。あまり有名ではないかもしれませんが、ポートフリップを作ってみたいと思います」
「聞いたことないカクテルですねぇ。どんなレシピなんですか?」
「ポートワインを使ったカクテルで、ポートワインに卵黄と砂糖をシェイクするだけのカクテルです。でも、今回は香りを良くするために、ブランデーなんかも使ってみましょうか」
「卵黄なんて使うんですか?」
「ええ。シェーカーを触り慣れていない方の一番多い失敗が、振りすぎてしまう事なんです。でも、卵黄のように混ざりにくい素材を使った場合は、元々振る回数が多めです。ですので、失敗を誤魔化しやすいかな、と思いまして」

そうして、バーテンダーを含め、3人ほどがシェイカーを振る。グラスに注がれた、コーヒークリームのような液体を交互に口に運ぶ。

「全然味が違うもんなんですねぇ」
「そうですね。こちらは……ちょっと、シェイク不足ですね」
「すいません、振り過ぎたらダメなんだ。って思いすぎて」

若い女性の出演者が、照れくさそうに言う。

「自分で作る分であれば、構いませんよ。シェーカーの氷を捨てて、中身を戻して何度か振ってみて下さい。邪道なやり方ですけどね。さて、こちらは……振り過ぎですね」
「ああ、やっぱりかー。これもどうにかする方法はありますか?」
「残念ながら無いですね」

バーテンダーは、困った顔で言う。

「物事には、取り返しの付かなくなるタイミングというものがあるのです」

テレビの中にある、砕けた氷混じりの薄くなったポートフリップを、見つめながら僕は思う。もしも、僕にも取り返しの付かなくなるタイミングというものがあったとするならば、それはもうとっくに過ぎ去ってしまった後なのだろうと。

「見学クラブってあったじゃん。ほら、フーゾクでさ。知ってる?」

映画を見に行った帰り道で、彼女は唐突にそう問いかけてくる。

「ニュースでやってたからね。存在ぐらいはね」
「じゃあさ、そこで働いてる子の気持ちを想像したことがある?」
「あるわけないだろう」
「想像してみてよ」

苦笑いが浮かぶ。なぜ僕がそんな想像をしてなきゃいけないんだ?

「なんでそんなところで働いてるのかとか、そういうやつ?」
「それはただの予測。んーと、何ていうのかな……」

そっと手を口元に添え、少しうつむき加減に黙りこむ。考えこむ時の彼女の癖だ。僕は彼女から目を逸らし空を見上げる。枯葉一つすら残っていない寂れた街路樹が、風で微かに揺れていた。

「例えばさ、私達もそうだし、他の人達とでもそうだけど、お互いの考えって誰にもわからないわけじゃん」
「会話は?」
「もちろん無しで」
「じゃあ、予測するぐらいしかないね。知識と経験から」
「そう、知識と経験。また、回りくどい言い方するね」

彼女は笑う。

「じゃあ、その知識と経験から想像してみてよ。そういうお店に女の子を見に来て、頭の中で航空力学とか環境保全活動とか、そんな事を真剣に考えている男の人っていると思う?」
「さすがにいないと思うよ。だいたい考えてる事なんて、一つじゃないか」
「私だってそう思う。じゃあ、もっと想像力を広げてみようか」

そう言って、彼女は続ける。

「マジックミラーに囲まれた部屋に、キミは座っている。その周りは狭く区切られた個室で、そういう事を考えている男の人達がマジックミラー越しにたくさんキミを見ている──」

その部屋は不自然なぐらいに明るかった。仕方がないのだろう。マジックミラーは明暗差を利用したある種のトリックだ。その強い光は必然性あってのもので、何も私の神経を刺激させようとしているわけではない。

私は鞄の中から来る途中に買った今月号のJILLEを取り出し、経たったビーズクッションに腰を下ろし体育座りのような感じでパラパラとページを捲る。

「何も特別な事をする必要はないよ。普段、部屋でくつろぐように自然にしていてくれたらいい」

オーナーは静かに、それでいて少し威圧げに、口元は侮蔑的に言った。

「ただ、脚は気持ち大きめに開く事は意識したほうがいいだろうね。だらしなくガバッと開くのはダメだ。あくまで自然に。わかるだろう?」

クソッタレが。私は思う。何が自然にだ。こんなギラついた光の下で、何をどうすればつくろげるというのか。それだったら、自然体を演じろと言われるほうがよっぽどマシだ。

私は立ち上がって、部屋に備え付けのドリンクバーから紅茶を注ぐ。立ち上がるタイミングで、どこかから舌打ちのような音が聞こえた気がする。多分、私の正面にいた誰かだ。部屋の中は有線放送が流れていて、耳をすましたって聞こえるのは嵐の大野くんの歌声ぐらいだ。

紅茶を手にさっきとは違う場所に腰を下ろす。他の子はまだ来ないんだろうかと私は思う。一人でいたって間が持つわけないじゃない。

私はもう一度雑誌に集中しようとする。けど、うまく集中できない。知らない誰かの息遣いや、性器をこする音が聞こえてくる気がする。

すぐそこにいる。
私は顔をしかめる。

「何ていうのかな、最悪な気分になったよ」

僕はつぶやく。彼女は言う。

「それが想像するって事よ。そんな風に限定された空間だったらさ、考えてる事って伝わると思わない?」
「よく分からないんだけどさ。なんでそんな話になったんだろう?」
「前フリ」
「前フリ?」
「想像してみて」

彼女は続ける。

「もしもキミにとても大切な人がいて、世界が滅びる日が来た時。キミはその人の手を最後まで握ってる?それとも、その手を離す必要があっても最後まで足掻く?」

世界が滅びる日?

「見学クラブとかと違って、ちょっと設定が大きすぎないか?正直、検討もつかない」
「そうかもね。でも、想像してみて」

彼女は僕の前に回り込むように立って続ける。

「一年後、世界は滅びる。私は16で、キミは22で死ぬ」

強い突風が吹く。彼女の髪やコートの裾がはためく。木々たざわめく。どこかで犬が吠える声が聞こえる。

それでも、彼女は僕から視線を逸らす事なく、真剣な目で、じっと僕を見ていた。

「今度、じっくり考えてみるよ」と、僕は言う。
「じっくりと考えてみて」と、彼女は言う。

彼女が入院する事になったのは、それから半年後の事だ。

僕が聞いた話は、いまいち要領を得なかった。彼女は、どこか具体的に悪いところがあるわけではなく、ただ体力が低下していっているらしい。ひょっとしたら、そういう症例がどこかにはあるのかもしれないけど、医者にも見当がつかないらしかった。

「あんた、お見舞いに行ってあげたら」

母親の言葉に僕は頷く。

部屋に戻り、ベランダから空を見上げる。こんな時のお見舞いには、何を持って行けば良かったんだっけ?そんな事を考えていた時の事だった。

「綺麗な月だと思わないかい?」
「ああ」

僕はごく自然にそう答えて振り返る。そこには人影がない。周囲を見回す。ベランダの足元に、一匹の黒猫が礼儀正しく座っていた。

「不思議なものだよね。こんな綺麗な満月をなのに、昔っから人は満月の夜には良くないことが起きるっていう。他に綺麗なものもたくさんあると思うけど、なんで満月の夜だけはそんな風に言われちゃうんだろう?」

その黒猫はスラスラと言葉を喋る。僕はひどく驚く反面、それがあまりにも自然すぎて、おかしいと思う事自体がおかしい気もした。僕は何て答えれば良いのかわからずに、じっと黒猫を見つめる。

「ああ、ごめん。いきなり話しかけられても困るよね。もし、俺に何かしらの名前が必要だっていうなら……そうだな、エドワードとでも呼んでくれ。」
「エドワード?」
「名前に深い意味はないよ。たまたま聞き覚えのある名前だったからそうしただけさ。それとも、もっと別の名前のほうが好みかい?」
「いや、別に構わないよ」

エドワードと名乗る黒猫は笑う。

「だよね。そもそも、名前とか呼び方にそんなに深い意味はないんじゃないかな。俺は俺さ」

いや、そうじゃない。僕は思う。名前にはもっと深い意味があるはずだ。

エドワードは黙って月を見上げていた。僕はじっと彼を見つめる。首輪をつけている様子がないところを見ると、きっと飼い猫ではないのだろう。それでも野良猫にしてはとてもいい艶の毛並みで、満月の光でとても深い緑色のように輝いていた。黒猫といっても、完全な真っ黒ではないのかなと僕は思う。もっとも、彼が特別な毛をしているだけかもしれない。喋る猫なんだ。他の猫と違っていても不思議はない。

「君に話があってきたんだ」
「僕に?」

エドワードは頷く。

「多分、よくない話だけどね」

僕の頭の中に、いつかの店長の言葉が蘇る。

「猫の話しかけてきた言葉に返事しちゃいけない」

エドワードは続ける。

「話っていうのはね。君のよく知っている彼女の事だ」
「彼女の?」
「そう。彼女が原因で、彼女の世界が滅びようとしている」

僕は息を呑む。月明かりが僕達を照らす。

「よく分からないな」

僕は言う。彼女が──と言いかけて、僕は別の言葉を選ぶ。

「誰かが原因で、この世界が滅びるなんて事があるんだろうか?」
「この世界は滅びたりはしないよ」

エドワードは、顔を洗うような仕草をしながら言う。

「世界っていうのは、もっと個人的なものなんだよ。君の世界と彼女の世界はゲンミツに言えば別物なのさ」

僕は首を振る。

「申し訳ないんだけど、もっとわかりやすく説明してくれないか?」
「君は世界は1つだと思ってるかい?」
「もちろん」
「うん、まぁ、そう考えてしまうのは仕方がないさ。普通は別の世界を認識することはできないからね。世界ってのはね、いわば分裂して増殖し続ける細胞みたいなものさ。意識の延長上にしか存在しない。全ては認識のもとでしか具現化しないものだよ」
「パラレルワールド」

僕はそう口にする。まるでSFみたいだと僕は思う。

「まぁ、似たようなものだね。ゲンミツに言えば少し違うけど」
「ゲンミツに言えば」

エドワードの言葉を僕は復唱する。

「まぁ、詳しい説明は止めておこう。簡単に言うとね、君が思っているほど、それは並行な世界ではないんだ。細胞核のようなものは同じでも、それ以外の事は何もかもが違うことだってありうるって事さ」
「例えば」

僕は言う。

「世界ABCが存在してるとして、ABでは人間の僕がCでは犬になってるみたいな感じでいいのかな」
「そういう認識で構わないよ」

エドワードは笑みを浮かべる。不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫が目の前にいたら、きっと彼のような笑い方をするのだろう。

「そこでは何だって起きるんだ。君が山田さんであったり、坂口さんであったり、ポチであったりする世界だってあるかもしれない。そんな風に全然違う世界もある」
「話を元に戻そう」

僕は部屋の中に戻り、ベッドに腰を下ろす。エドワードは僕の机の上に駆け上がり、僕に言う。

「どうぞ」
「例えば、どこかに世界Dがあるとする。そこでは僕は人間かもしれないし、猫かもしれないし、何かよく分からないスライムみたいなのかもしれない。その世界Dがある日滅びたとして、世界Aの僕に何かが起きるんだろうか?」
「もちろん、何も起きないよ」

当然じゃないか。といった顔でエドワードは言う。

「じゃあ、彼女の世界が滅びるっていうのは、どういう意味なんだろう?」
「なんて言ったらいいのかな、これはとってもイレギュラーな事なんだ。だから、俺だって上手く説明できるかどうかはわからない」

エドワードはじっと考えこむ。僕は彼の言葉を黙って待つ。

「これはね。言うなれば、世界A’の問題なんだ」

世界A’。それはこの世界と、とても近いような響きを持つ呼び方だった。

「なんか言い難いな。あっちの世界とでも言い直すよ。とにかく、あっちの世界が滅びる時、当然だけどあっちの世界の人はとても酷い目にあう。当たり前だよね、何せ世界が滅びるんだから。でも、こっちの世界では何も起きない。君たちが世界は1つだとしか思っていないように、世界ってのは本来干渉しあうものでは無いんだ」
「本来は」

僕は繰り返す。

「そう、本来は。世界が重なりあっていなければね。結論を言ってしまえば、あっちの世界で彼女が死んだ時、こっちの世界でも彼女が死ぬことになる」

僕とエドワードは長い間黙り込んでいた。彼が僕の言葉を待っている事はわかっていた。それでも、何も言葉が出てこなかった。そもそもよくわからない事だらけだ。何から聞けばいいのだろう?全身の筋肉を使って搾り出すようにして僕は口を開く。

「何とかする方法は?」
「世界の繋がりを断ち切ればいい。彼女は言うならば、結合双生児のような状態なんだ。助けるには手術で切り離して、あるべき姿に戻す必要がある。」
「だったら」
「最後まで聞くんだ」

声を荒げた僕を制するようにエドワードは言う。

「多分ね、知らないほうがいい事って世の中にはたくさんあると思うんだ。でも、俺はできるだけフェアに、伝えれることは伝えたほうがいいと思ってる」

哀しそうな目をしてエドワードは言う。彼はこれから知らないほうが良かった事を伝えようとしている。僕は頷く。

「もし、君が世界の繋がりを断ち切ることを選ぶとする。その場合、『君の知っている彼女』は消えて、『君の知っていた彼女』が残る事になる。『君の知っている彼女』こそが、世界を繋ぐ媒介だからだ」

唾液を飲み込む音が、頭の中に鳴り響く。

「君がそう望むなら、君は彼女を消滅させなければならない」
「あんまりさ、こんな数式みたいな説明は苦手なんだけどね。元々こっちの世界にいた彼女x、あっちの世界にいた彼女y、今君が良く知っている彼女はz=x+y。こんな風に考えて欲しい」
「なぁ、エドワード」

僕は力無く呟く。

「なんだい」
「ルールがよくわからないんだよ。君はさっき、世界は分裂して増殖するものだって言ったよね」
「ああ、その通りだ」
「じゃあさ、本当なら世界は3つに別れるものじゃないのか?」
「理解が早いね。本来ならその通りだ。仮にz=x+yが発生したとしても、それはやがてただのzになって、互いに干渉のない世界が生まれる。ただ、何度も言うけど、これはイレギュラーであって」
「そんな簡単に割り切れるわけないだろ」

エドワードの言葉を僕は遮る。彼は深いため息をつく。

「いいかい、僕はこっちの世界の住人だから、あっちの世界で何が起きたのかはわからない。これは多分、両側から複雑なものが絡み合った結果なんだ。だから完璧な答えはわからない。それは大前提として聞いて欲しい。全ては推測だ」

僕は頷く。せめて自分の中で納得できるなら、推測でだって構わない。

「世界ってのはね。大なり小なり、色んなきっかけで別れていくんだ。全ては可能性や選択、認識の問題だからね。多分、あっちとこっちを別けたのは彼女だ。それは多分間違っていないし、そのこと自体は問題じゃない」

色んなきっかけ。僕は心の中でくり返す。

「でもね、何だってそうだけど、世の中には別れようとする力と元通りにしようとする力がある。元々の世界に対する未練だとか迷いだとか、まぁ様々なものだ。本来なら、それだって何も問題ない。そういう考えが欠片もないヤツなんて、いるわけ無いんだからさ。問題はそれがいつまでも続いている事さ」
「何でそんな事に」
「あのさ、いい加減にしろよ」

エドワードは強い口調で吐き捨てる。

「君にも責任はあるんだぜ」
「僕に?」
「そうさ、ヒーローになる事を望んだのは君だろう?ヒーローが存在するには、誰かが虐げられた世界が必要なんだよ。誰も不幸じゃない世界にヒーローが必要かい?君の望みが形を変えて、世界を縛り付ける一つの要因になってないなんて、誰が言える?」
「ちょっと待てよ、僕が望んだのは」

僕の言葉はエドワードに遮られる。

「いいかい、願い事っていうのは、本質的には利己的で暴力的なものなんだ。何かが起これば誰かが傷つくし、何が変わる事で君の考えてもなかった影響が世界には現れる。バタフライ効果を知ってるかい?」
「バタフライ効果?」
「蝶の羽ばたきがきっかけで、どこかでは竜巻が起きるって事さ。何だってそうさ、きっかけなんて本当に些細な事なのに、それが後々になって大きな出来事に繋がる。考えてもみろよ、君は彼女が世界の滅亡を望んだから、こんな事になっているとでも言う気か?」

長い沈黙の後でエドワードは言う。

「俺が言いすぎたよ。ごめん」
「いや、いいよ」
「君だけが悪いみたいに言うつもりはなかったんだ。ただ、わかって欲しいのは、君は当事者って事なんだ。傍観者ではなく」
「他に方法は無いのかな?」

エドワードは首を振る。

「それはもう始まってしまった事なんだよ。時間は絶対に前には戻らない。誰も落っこちたハンプティ・ダンプティを元に戻すことなんて出来やしない。選択肢は2つだよ。彼女の世界の終わりを見届けるのか、彼女の存在を君の手で消滅させるかだ」

エドワードはそっと立ち上がる。

「時間は限られてるから、いつまでも待つなんて言えないけど、君が考えて君が決めるんだ」

彼は起用に窓を開けて外に出る。冷たい風を浴びながら、彼は呟く。

「君はさ、多分、彼女の中でこうなってしまった原因を、きっと分かってるんだよね」

僕は頷く。

「君はもっと早く彼女を抱きしめておくべきだったんだ。それが誰かや彼女を傷つける事になったとしても」
「なぁ、彼女は知っているのかな。この事を」

エドワードは呆れた顔で振り返る。

「当たり前だろう」

ろくに眠れないまま朝を迎えた。僕は彼女の病室へ向かう。彼女は規則正しく寝息をたてていた。椅子に座り、じっと彼女を見つめた。とても長い時間。

やがて、彼女は目を覚ます。

「……あれっ、いつから来てたの?」

慌てて飛び起きた彼女に僕は言う。

「ちょっと前かな」
「そっか、恥ずかしいな。寝顔見られてたのって」

照れくさそうに笑う彼女に、僕は微笑みを返そうとする。多分、僕は引きつった顔をしているのだろう。

「今日、大学は……って、土曜日だったっけ?」
「うん」
「ダメだね、入院とかしちゃってると。曜日感覚ってのが無くなっちゃうよね」
「まぁ、仕方ないよ」
「さっさとさ、退院してどっか出かけたいよ」

僕の口元が動きを止める。彼女は怪訝そうな顔で僕を見つめる。そして、小さなため息が漏れる。

「そうか、キミも、知っちゃったんだね」
「何を?」

誤魔化すように僕は答える。

「私がもうじき死んじゃう事」
「何で?」
「止めようよ、そういうのさ」

彼女はまた微笑む。

「詳しい事は私だってよく分からない。でも、あなたは後これだけ経てば死にます。それはもう絶対避けられません。そんな風にさらっと宣告されちゃうとさ、悲しいとか怖いとか、全部すっ飛んでスッキリしちゃうよね。バカみたいな話だと思うけど」
「宣告されたって、誰に?」
「言って信じる?」

僕は頷く。猫が喋ったんだ。それ以上に信じれない事なんてない。

「中学2年ぐらいの頃からかな、ずっと夢を見てるんだよ」

彼女はゆっくりと語る。これは彼女の夢の話だ。多分。

私は何処かの塔にいた。そこはまるで中世時代の小さな王国のような場所で、私はそこでは姫と呼ばれていた。格子付きの窓は、外を覗くことも出来ず、扉は外側から閉ざされたままだった。そこで会う事が出来る人は、ほんの僅かだった。食事を運んでくれる口の聞けない老婆と、神に祈る時間を与えにくる神父と。私は何度となく神父に問いかける。

「ねぇ、私はどうしてここから出ることが出来ないの?」
「あなたを護るためなのです。姫様」
「護る?一体何から?」
「それはお伝えすることはできませぬ」

ある日、普段と違う神父が姿を見せる。私は同じように問いかける。

「呪いです」

その神父はそう答える。

「呪い?」
「とても、恐ろしい呪いです」

私は訳が解らなかった。呪いとは何なのだろう?なぜ私が呪われなければならないのだろう?

「姫様、よくお聞き下さい。それは血の呪いなのです。あなたは、心を壊し、徐々に体の力を失い、16の誕生日に世界の終わりと共に死ぬでしょう。そして世界の創造と共にそれを永遠に繰り返すのです」
「あなたが何を言っているのか、私にはわかりません」

日が変わり、いつもの神父が現れる。私は問いかける。

「答えてください。私は何かに呪われているのですか?」

神父の顔色が変わる。

「何処でそのような話を」
「答えなさい」
「忘れるのです!」

今までにない強い口調で神父が言う。

「そのような事は忘れるのです!少なくとも、その事を知った事は誰にも口にしてはなりません!これは貴方のためなのです!」
「夢の話だろ?関係ないよ」

僕はそう答える。

「勿論、それはただの夢かもしれない。でもね、実際に原因もよくわからないまま、段々と体調が悪くなって、こうやって入院する事になって、あぁ……これは呪いなんだって、思わない方が無理じゃないかな」

彼女は淡々と続ける。

「このままの状態がずっと続けば、半年ぐらいでダメになりそうだって、先生が言ってたらしいよ。キミも何処かでその話、聞いたんでしょ?」

僕は頷く。嘘を付く。

「ねぇ、今ならちゃんと想像できる?世界が終わる時、キミならどうするか?」
「そうだな……」

僕は言葉を濁す。彼女は不意に僕の手を取る。冷んやりとした手が、僕の手を握り締める。

「私だったらね、最後まで手を握り締めて欲しいと思う。その手を最後まで離さないでいて欲しいと思う」

今にも泣きそうな顔で彼女は言う。

「このままだと死んじゃうなんて話をした後に、こんな事言うのも馬鹿みたいな話だけどさ、私はキミの事を愛してると思うよ。それも、とても強く。でもね、そうした想いの質量が強ければ強いほど、何かの弾みでそれが全く違ったものに変化してしまいそうで、それが怖いんだ」

僕は黙って彼女の手を握り返す。

沈んだ気持ちのまま街をただ歩いた。どんな道筋を歩いたのかは分からない。気がつけば僕は、バイト先の喫茶店の前にいた。誰かの声を聞きたい。そう思って、店の扉を開く。

「いらっしゃ……どうしたんだ?今日は休みだろ?」

店長が不思議そうな顔で言う。

「客として来たんですよ」
「マジかぁ、あんましおっさんを働かせるなよな。で、何にするんだ?」
「何って、メニューは今日のお薦め珈琲しかないんでしょう」
「そうだな。聞くまでも無いわな」

笑いながら店長は手際よく珈琲を淹れる。温かい珈琲を口にしながら、僕は外に出すべき言葉に思いを巡らせる。変なものだと思う。話したい時に限って言葉が出てこない。

「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。そんな台詞聞いたことあるか?」

僕の顔をじっと見ていた店長は、ポツリと呟く。

「小説の台詞ですよね」
「なんだ、若いのによく知ってるじゃないか」

そう言って店長は笑う。

「ずっと前にこの言葉を聞いた時、脳天を撃ちぬかれた気がしたんだ。ああ、男が生きるってのは、そういう事なんだ。そんな風に思って生きてきた。今までな。でもな、優しいって何なんだと思う?」

突然の問いかけに僕は戸惑う。頭の中でいろんな事がぐるぐると回る。店長はどんな答えを望んでいるのだろう?僕は思わず目を逸らす。

「わかりません」
「何せな、元々が有名な言葉だ。それこそ色んな解釈があるわな。男だったら、弱い人は助けてあげましょう。困ってる人は救ってあげましょう。そうじゃなきゃ、生きてる資格がねぇ」

僕は頷く。店長はカウンターから身を乗り出すようにして続ける。

「でもな、違うんだよ。そんな事は優しくなくてもできるんだ。タフでさえいればな」
「タフでさえいれば……ですか?」
「そうだろう?自分の事を押し殺して、そりゃ色々しんどい思いだってするさ。でも、タフだったら、そんな事は出来ちゃうわけだろ?」
「じゃあ、優しさって何なんですか?」
「どんなにタフに生きたって、誰も神様じゃないんだ。どうやってて叶わない事、やるせない事、耐え切れない事がたくさんあるさ。タフに生きるって事は、自分をボロボロにしていく事さ。でもな、そんな自分を許してやれる事が、優しさだとわしは思ってるよ」

テーブルの上で手の指を組んで、そっと額を乗せる。店長の顔が上手く見れない気がした。今の僕の顔を見られたくない気がした。長い沈黙の後で、店長は言う。

「お前さんが、ずっとタフに生きようとしてた事は、よく分かるよ。でも、そろそろ、優しくなってもいいんじゃないか?」

泣くな。自分にそう言い聞かせる。もっと後なら構わない。でも、今はまだ泣いちゃいけないんだ。僕は立ち上がる。

「じゃあ、もう帰りますね」
「ああ。そうだ、レジ触るの面倒くさいから、給料から天引きでいいか?」
「構いませんよ」
「じゃあ、また明日な」
「はい、また明日」

店を出て、僕は歩き出す。長く伸びた影が、僕の視界に触れる。

「行こうか」

影の先で、エドワードは言った。

黙ったまま、二人並んで歩く。今しかないんだろうな。そう考えて、僕は言った。

「あれからよく考えてみたんだ」
「なんだい?」
「エドワード、君は嘘をついている」

エドワードの髭がピクッと動く。

「君が何を考えて、そういう結論に達したのかは予測がつくよ」

エドワードは続ける。

「未来ってのはね、可能性の問題なんだ。君がそう思うなら、そういう可能性の世界もあるんだろうね。でもね、世界の外側がどうなるかなんて、誰にも解らない」
「もう一つ、僕の知っていた彼女が残るって話もだ」

エドワードはため息をつく。

「そうだね。正確に言うと『君の知っていた彼女が成長した人』と言うべきなんだろうね。それがどんな彼女かはわからない。極端な例で言うと、君のことをとても仲良く思っている彼女かもしれないし、君のことをとても憎んでいる彼女かもしれない。指で弾いたマッチ棒みたいに、どの方向に倒れるかは分からないんだよ」

僕は頷く。

「嘘をつくつもりも、騙すつもりもないんだ。俺だって、あの時こう言えばもっと上手く説明できたんじゃないかと、後悔することがしょっちゅうあるんだ。だから、嘘だと思わせたことは申し訳ないと思う」
「責めるつもりは無いんだ。ただ、はっきりとさせておきたいんだよ。僕達は、これから世界の狭間のような場所に行く」

僕はそこで言葉を区切る。エドワードは黙って頷く。

「そこは、あっちの世界ともこっちの世界とも違う場所だ。そして、全てが終わった後、僕らが戻る世界はゲンミツに言えば、こっちの世界ともまた違うんだろうね?」
「結果的に言えば、君の言ってる事は正しいと思う」

エドワードは言う。

「細かい解釈は色々あるんだろうけど、簡潔に言うと『俺達は元の世界には戻ってこれない』って事になるんだろうね」

俺達。はっきりとエドワードはそう言った。

「俺達は世界の枠から飛び出す。その間も世界は増殖を続ける。その中のどれかには戻れるだろう。多分、戻る時は、俺たちも別々の世界にいるんだろうね」
「君も?」
「当たり前じゃないか」
「最後に聞いてもいいかい?」
「どうぞ」
「君は何故、戻れないと解っていて、一緒に来るんだい?僕一人でも済む話なんだろう?」

エドワードは首を振る。

「君は多分、悲観的に考えすぎなんだ。元の世界に戻れないって言っても、ゲームで言えば大魔王が君臨する世界から抜け出て、大魔王が倒された後の世界に戻る程度の話だよ。フラグの有無でクリア後の世界がちょっと違う程度の話さ。戻ってきたらスライムになってましたなんて話でも無いんだからさ。それとね」

エドワードはそこで言葉を区切る。短い沈黙の後、意を結したように彼は続けた。

「俺も彼女を助けたいんだ」

僕達はそれから黙り込んだまま、公園にたどり着く。互いにベンチに腰を降ろし、エドワードは言う。

「目を閉じて、強く想うんだ。具体的に、明確に。世界は認識された可能性の片鱗なんだ。俺達は、そこにたどり着ける」

そう。僕達はそこにたどり着く。

そこはひどく暗くて寒い場所だった。そして空気が重い。この空気の重さはどこかで感じた事がある。そんな気がする。

「あれが見えるかい?」

エドワードの視線のずっと先に丸い球体が浮かんでる。

「あれが想いという質量と重力の塊で、ブラックホールの卵のようなものだよ。今は世界を引きつけているだけにしか過ぎないけど、いつか重力崩壊を起こして全てを飲み込む事になる。その前に君はそれを壊さなければならない」
「それと同時に彼女は消滅するんだね」
「ああ」

エドワードは足を止める。

「ここからは君だけで行くんだ」
「何故?ここまで一緒に来たんだろう?」
「俺が行くと、余計な事を言っちゃいそうだからね」

エドワードはじっと僕を見る。

「ここは何だって起こりうる場所なんだ」

僕が口を開くことを先に制するように、エドワードは首を振る。何となくだけど解る気がした。きっとこれは、僕の問題なのだろう。僕は振り返らずに進む。

静かで暗い道を歩き続けているうちに、まるで自分が黄泉の国を歩いているような錯覚が浮かぶ。そのせいか、ふとした弾みに古事記の一節を思い出す。

爾千引石。引塞其黄泉比良坂。

イザナギノミコトは死んでしまったイザナミノミコトに会いに黄泉の国へと向かう。蛆虫が湧き出ている姿に変わり果てたイザナミノミコトを見て、イザナギノミコトは逃げ出す。逃げ出すだけではない。黄泉比良坂を千引の石で塞ぎ、決してこちら側へは戻れないようにする。

それを最初に読んだ時、なんて酷い話なんだろうと思った。国を作るほどの凄い神様で、死んでしまった後でも逢いたいと思った相手を、そんな風に変わり果てた相手を、何故哀れむわけでもなく感傷を持つわけでもなく、簡単に断絶出来てしまうのだろう?それでも僕は思う。現実に漂う汚穢に満ち嫌悪すべき死を、苦痛にまみれた来るべき滅びを、完全なまでに決別するための石を置かなければならない。それはきっと正しい事なのだ。

「やぁ」と、彼女が言った。
「やぁ」と、僕は答えた。

「来たんだね」

そう言って彼女は微笑む。ここは何だって起こりうる場所なんだ。そう言ったエドワードの言葉が頭の中で繰り返される。

「正直に言ってしまうとね。僕は本当は来るべきじゃなかったんじゃないかと思ってる」
「どうして?」
「どうしてかな」

僕は自嘲気味に笑う。

「本当は、あの病室で、ずっと君の手を握っている事のほうが、正しいんじゃないかって今でも思うんだよ。それで世界が滅びるんだとしても」
「でも、キミはここに来た」
「すごく矛盾してるって、自分でも思ってるよ。ずっとそうだ。頭の中で考えていることと行動が、いつもバラバラだ」

僕は拳を握り締める。手のひらに爪が食い込む。

「この期に及んでも、何もきちんと選ばずにここまで来た。卑怯だよ、僕は」
「卑怯とは違うと思うよ」

彼女は言う。

「キミは、心から望んだからココにきた。ちゃんと選択してココに来た。でも、それを認めたくないだけなんだよね」

僕は彼女を抱き寄せる。そして、無言で強く抱きしめる。ある種の限定された空間でなら、言葉は無くても思いは通じるのだろうか?伝わるのだろうか?自分自身に渦巻く混乱から、何か見つけることが出来るのだろうか?

「あの……さ」

長い時間が過ぎた後、気まずそうに彼女が言う。俯き気味な彼女の視線の先を見て、自分が勃起している事に気づき、焦って彼女と少し距離を開ける。

「ごめん」
「いいよ、別に」

そう言って彼女は笑う。

「やっぱりさ、男の子なんだね、キミも」
「そうみたいだね」

僕も笑う。色んな事を誤魔化すみたいに。

「あのさ、もし、キミが泣きたいなら、泣いたっていいんだよ」
「ありがとう。でも、泣かないよ」
「どうして?」
「そんな風に泣けるほど、強くはないんだ」
「そっか」

彼女に背を向けて、僕はゆっくりと卵に近づく。

「ごめんね。さようなら」

僕は弱い。彼女に言葉を返せないぐらいに。

いつだったか、彼女は言った。

「人の想いってさ、とても脆くて儚い卵のようなものだと思わない?直接触れてしまえば崩れてしまいそうなぐらいに。だからさ、本当は陳列棚の中にでも大事にしまっておくべきなんだよ。ちゃんと孵化するまで」

それは本当に脆くて儚くて、手を触れただけで砂のように崩れ散って言った。粉々になった欠片は宙に舞い、霧雨のように静かに降り注いだ。どうして、心や想いはこんなにも簡単に壊れてしまうのだろう?触れてしまった者の手に、もっと嫌な感触を残すべきなのだ。誰かの心臓を握り潰すみたいに。全身に禊が必要なぐらいに。

「本当に馬鹿だよ。君は……」

エドワードが言う。

「そうなんだろうね」

舞った欠片が完全に見えなくなるで、僕らは黙ってそれを眺め続けていた。

「俺も君の前から消えるよ。多分、もう二度と会う事もないだろうしね。でもね」

エドワードは静かな口調で続ける。

「これだけは伝えとかなきゃダメだと思う。君はこれから先、溜め込んできたツケを払い続けなきゃならない。君が今まで得たものに対して、失ったものに対して、全てを抱えて選択していかなきゃならない。そのツケがいつ払い終わるのか、あるいは払い終えないままなのかはわからない。でも、ツケはツケなんだ。わかるよね」

僕は黙って頷く。でもね。僕は口を開く。

「エドワード。この先、僕は何度となく君に出会う事になる気がする」
「そうかもしれないね。でも、それは俺であってもエドワードでは無いんだろうね。彼女と同じだ」

エドワードは、宙を見上げる。そこには暗い空間が何処までも続いている。

「世界が終わった後には何が残るんだろう」
「何も」

エドワードは即座に答える。

「有象無象は関係なく、何かが残る限り、それは世界の終わりじゃないのさ」

そう言ってエドワードは、僕をじっと見る。よくわかるよ。そう言いかけて口を紡ぐ。それは多分、口にする必要のない言葉だ。

「じゃあ、俺は先に行くよ」

ゆっくりと進むエドワードを僕はじっと見る。その瞬間、僕はある種の可能性に気づく。衝動的に僕は彼の名前を呼ぶ。彼は足を止め、ゆっくりと振り向いて微笑む。

「さようなら」

彼は立ち去る。僕は目を閉じる。世界の成り立ちはもっと複雑なのだろう。彼の認識以上に。

コンビニで、100円ライターと煙草を買って港まで歩いた。深夜の港は思ってたよりもずっと静かで、波音だけが繰り返し鳴り響いていた。初めて咥えた煙草に火を着ける為に、強く息を吸い込みすぎて咽こんだ。煙に目をやられて涙を流した。

忘れるな。僕は強く思う。

この口の中に広がる苦い味も、身体に染み込む匂いも、忘れちゃいけない。全身を締め付けるようなあの冷たい空気を、僕は覚えておかなくちゃいけない。叫び声をあげたくなるような胸の疼きも、もう二度と触れる事のない感触も、微かに残った温もりも、全部、全部覚えておかなくちゃいけない。細胞核に刻みつけておかなければならない。

もし、可能性があるのなら。何処かの世界で、僕はそれを選択する。